「いのちがけでかく」教えた先生 灰谷 健次郎
立派な人が次から次と逝去される。朝日新聞の「惜別」では、亡くなった方々の、お人柄や業績、諸々を紹介している。どの人の場合にも、感心させられる内容なのだが、私にとって、今回はちょっと気分よくさせてもらったので、記事にめぐり合わなかった人に、読んでもらいたい、と思ってキーボードを叩いています。筆者の大野博人さんは、朝日新聞社の記者の方だと、思い込んでいいのかな。その紹介はなかったので、勝手に思い込んでしまうことにしましょう。小学生だった大野さんが、作家になる前の先生・灰谷 健次郎さんとの(てがみ)を通しての交流を著していた。読者を、楽しく、微笑ましくさせる文章作法で。灰谷先生との邂逅が、記者・大野さんの人格形成に大なる影響を与えたことなのでしょうね。灰谷先生は、教師を辞めて、作家活動に入る。一方の大野さんは、勉学を重ねて、新聞社に入社。モノの考え方、文章の綴り方で、恩師からの教えの通りに精を出して、その仕事の一部が今回の記事なのでしょう。
私のような者が言うまでもないが、灰谷 健次郎さんは天国で、大野さんの記事のできばえをさぞかし、満足されているのではないでしょうか。こんな、偉そうなこと、書いて、失礼しました。もう、仕方ないことだけど、私も、あなたたちの中に、飛び入りたかった。
2006年12月25日 朝日(夕)
惜別 灰谷 健次郎さん
1冊の古い便箋が手元に残っている。ぼろぼろの表紙には「ひろひとちゃんと先生のてがみ」とユーモラス文字。書いたのは灰谷先生だ。45年前の神戸市立東灘小学校で、ぼくら2年2組の担任だった。便箋に、友達と遊んだ話や詩をたどたどしい文でつづると赤ペンで返事をくれる。先生はクラスのみんなとそんなやりとりをしていた。 面白い表現があると「きょうまでのてがみのなかでいちばんよかった。さいこうやな」とほめる。でも、いい加減な文章には「こんな詩あかんワ。自分をふりかえってみることができるのがつづりかたや。そやないと、ちょっとあたまのええ、もんくのよういうふつうのにんげんになってしまうぞ」。で、「ごめんなさい」と書くと、「いいたいことがあったら、なんでそのことを紙いっぱいにかかへんのや。先生ごめん、なんてあやまるのはかしこいのとちごうて、ずるいのや」。それに反発すると「おこってるときのほうがよっぽどええわ。おまえがわかるまでなんぼでもけんかしたるぜ」
「絵や詩は、先生にいわしたらいのちがけでかくもんや。ひろひとみたいなやりかたでかかれたら、先生までばかにされたような気がするわ」。
二十代。まだ作家として世に出てはいなかったが、表現することの切実さを幼い子供にも懸命に伝えようとしていた。授業でも本気で向き合うから、子供達には圧倒的な人気があった。
大好きな先生とも別れる学期末。「てがみ」のおしまいに先生はこう書いた。
「むかしの中国の詩人が、さよならだけが人生だ、とかいている。にんげんはいきているあいだ、なんかいもしたしい人とさよならをせなあかん。さびしいこっちゃ。でも、それがにんげんのべんきょうのみちや。まあ、そんないみやな」
「サイナラ。また、あそびにこいな」
あそびにいきたいよ、せんせい。
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