2009年8月29日土曜日

立候補者よ、今からでも遅くない

先日、かってお世話になった先輩から、君の選挙区で自民党大会があるので会社の仲間を2,3人連れて出席してくれないか、と頼まれ、仕事仲間に頭を下げて同行を願った。仕事を終えてからの、楽しくも無い私の頼みごとに、嫌な顔一つしなかったことが、かえって私を苦しめた。某公会堂だった。神奈川県の全選挙区の候補者、もしくはその代理人がステージに並んで、司会者の案内に従って、自己をアピールした。ピールしたといっても、何も主義主張らしきものは聞こえてこず、頑張ります、ガンバリマスの掛け声だけで、約1時間の大会は終わった。それから、万歳だ。今の、アレはなんじゃ、私はこう、こう、このように考えているので、あなたの清き1票を私に投票してください、こんな言辞は一言もなかった。この場に及んでは、情に訴えるしかない、と考えた果ての行動だったのだろう。

そんなことを友人に話したら、友人は友人で、自民党ではない党の大会に出た時のことを話してくれた。自分の党のマニフェストの説明よりも、他党をけなすことばかりの演説で、もうウンザリだった、というではないか。理屈抜きの中傷ばかりだった、と言っていた。力を入れているのは、目先のこまごました話だけ。

オバマとクリントン、マケインが競ったアメリカの大統領選とは、随分違うもんだ、と痛感させられた。大統領選挙と日本の国会議員の選挙の違いはあるが、アメリカの大統領選には感動した。選挙運動中においての数々の言葉や行動に心を揺さぶられた。最強国アメリカを導いて行こうとする者の気概が、連日、アメリカ全土を熱くした。国民が、候補者の言葉を一言も漏らすまいと聞き入り、行動の一挙手一投足に熱い視線を向けた。判定を真剣に見極めていたのだ。だが、そんなアメリカとは打って代わって、日本の今回の衆院選には、いつも通り失望した。

そんな折、朝日新聞に私の頭がシャッキっとしないことの裏づけのような記事が出ていたので、ここでその抜粋をさせてももらった。一部私が加筆したところがあります。

候補者の皆さん、今からでも遅くない、我々に、感動の伝わる一言をお願いしたい。その一言で、私は明日の一票を決めようと思っています。

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20090827

朝日・朝刊

渡辺 靖(慶応大学教授・文化人類学)

ダイジェストさせてもらいました。

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日本の政治には理念や哲学がなおざりになっている。政党が作った「マニフェスト」と称する詳細な冊子はありますが、これは「選挙公約」と表現すれば足りる内容で、仮に外国語に訳しても、国際的にインパクトを与えられるとは、とうてい思えません。細かな政策論議も大切ですが、単なる選挙公約を超えた、樹木で言えば「幹」となるべき「理念」や「哲学」こそ聞きたい。でも、実は、政治家は「理念」や「哲学」を語るだけでは十分ではない。

昨年のアメリカの大統領選で、オバマと争った共和党のマケインは、ベトナム戦争で捕虜収容所に5年半もいた際、仲間を置いて自分だけ釈放されることを固辞したという武勇伝を持つ。オバマも、ハーバードのロースクールを卒業後、高収入と出世への道を自ら絶って公民権専門の弁護士という地味な職を選び、貧困層の救済に尽力しました。だからこそ、二人が描く「アメリカ」には強い説得力がある。「友愛」や「とてつもない日本」とは、語っている重みが全く違います。

衆院選は終盤を迎えたが、これまでの選挙戦の中で、私たちは各党の党首や幹部、候補者から人間としてあるいは指導者としての、資質に富んだ言葉や行動をどれだけ見聞きできたでしょうか。

大統領選では、自分の昼食代を削ってまで5ドルを候補者に寄付した学生も少なくない。友人の教師の中には半年休職してまで選挙ボランティアに打ち込んだ人もいます。政治家が若い世代の心を揺さぶる存在になっているかが問われています。

日本の選挙戦を見ていると、依然、心を揺さぶるのは「情」に訴えることしかないのか。朝、駅前に立って演説すれば票をとれる、自転車で走り回って手を振れば、握手して回れば支持が得られるーーー、何を訴えているのでしょうか、有権者は本当にこれでいいのでしょうか。

オバマは大統領になるまで、クリントンとは22回、マケインとは3回、公開ディベートを行っている。司会はジャーナリストがおこなった。厳しいものでした。これが、「オバマ大統領」を作ったのです。

オバマの大統領当選直後の演説では、極めて抑制的で、共和党批判は一切しませんでした。そして、「私を支持しなかった皆さんの票は得られなかったが、声は聞こえています。皆さんの助けが必要です。私は皆さんの大統領にもなるつもりです」と呼びかけた。民主主義は多数決と同じではありません。むしろ勝者(多数派)が敗者(少数派)にどれだけ耳を傾け、信頼と共感を勝ち得ていくかによって真価が問われます。

勝った側の党首は、国際社会(国内にも)に向けて明確なメッセージを発して欲しい。日本の次の首相になる政治家には「これからの世界をどうしたいか」を語って欲しい。内向きのメッセージしか発しないようでは、失望を繰り返すだけだ。

2009年8月25日火曜日

「ゆとりローン」借主にに愛の手を

20090821の朝日・朝刊の1面に、「不動産競売 昨春の倍」の見出しの記事が出ていた。その記事を参考にさせていただいた。

競売にかけられる不動産の数がこの1年余りでほぼ倍増したことが、不動産競売流通協会の調べで分かった。住宅ローン返済に行き詰まる人が増えているのが原因とみられる。競売までの手続きには1年弱かかるため、この夏のボーナス大幅カットの影響がでるのは来春頃。さらに増える可能性がある。

協会によると、08年3月の競売物件は3773件だったが、今年3月には7千件を突破。7月は前年同月比70%増の7229件だった。

協会の吉村光司代表理事は「一定期間たつと金利が上がるローンを組んだものの、予想していた昇進・昇給が実現せず、返済に行き詰る世帯が増えている」と分析。不動産業界の資金繰りが悪化し、競売前の任意売却で買い手が見つかりにくくなっていることも、背景にあるという。

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今、衆院選の選挙活動で、各党それぞれになりふり構わずに、予算のバラマキを材料に熱戦中だ。なかでも民主党の勢いは、私が想像している程度ではなく圧倒的に勝利するのでしょう。そして、民主党が与党になって鳩山内閣が発足する。そこで、念入りに民主党のマニフェストを読んでみた。どこにも、頭書の朝日新聞の記事についての対策について記載がない。当然自民党のマニフェストにもない。どの党も、注目もしなかったし、検討もされたことはないのだろう。

この問題について、早急に愛の手を差し伸べる政党が出てきてもらいたいものだ。

私たちの会社の主要業務は、中古の戸建住宅をリノベーションして価値を高めて、もう一度現役の住宅として働いてもらうために市場に提供することなのです、だから購入していただくお客様の資金計画や、住宅の今後の維持については、購入者とともに日常的に腐心している。

そんな私たちにとって、頭書の新聞記事はショックだった。

かって住宅金融公庫や年金は、横浜では横浜市建築助成公社も、悪名高い「ゆとりローン」「ステップ返済」と言って、借り始めた時はぐうっと抑えた低い金額で始まって、5年後には初期の1.5倍ぐらい、11年後にはその1,5倍ぐらいに支払いが額を増える支払う方式で貸し出しを行っていたのです。このような公的機関がバンバンこの商品(この方式で)を売り(貸し)まくったのです。こんな方式ではなく、従来型の融資の方法もあったことはあったのですが、融資を紹介する側も、融資を受ける者も、この新しい方式に雪崩れうったのでした。バブル期、この方式には何の懸念もしないで「乗った」人たちが、今、所得が思うように上がらず、この方式に喘いでいるのが実態です。日本版サブプライム・ローンとも言われているのです。

支払いが行き詰った債務者たちのなかには、家庭不和から一家離散、職場を奪われ、夜逃げ同然に姿をくらました人、新たな資金は貸してもらえなく、将来を案じて自殺した人も増え続けている。自分の金融債務に対して、諦めたり、放棄したり、いい加減な処理さえしなければ、何とか、借り入れ期間を延ばすなど、ローン内容の設計変更を試みるように、もっと早い時期に黄色信号の出た借主にアドバイスなどの努力をすべきではなかったのか。公的機関である金融公庫の不良債権額がドンドン上積(うわず)みされていく。債務者は、意気消沈してプラスの経済活動などもってのほか、負へ負へのマイナス活動に陥っていく。結果的には、国の力が弱くなるための効果でしかない。

そこにきて、米国のサブプライム・ローンに端を発した世界同時不況による地価の暴落による、持ち家の評価減です。収入が減り、評価減による担保不足から、民間銀行でのローンの組み換えもままならず、苦境、困窮への一方通行だ。不動産業界への金融機関からの融資も少なくなり、競売前の任意売却も難しくなった。誰かに売ろうとしても、その売値では抵当権の抹消もできない。

「ゆとり~」を借りた人は、八方塞(ふさ)がり状態だ。

このことに関しての直接的な当事者で、一番影響力のある住宅金融公庫は、名前が気に食わないのですが、住宅金融支援機構と名を変えた。支援するのは誰を支援するのだろうか、と思いきや、「ゆとり~」で悲鳴を上げている人を支援するのではなく、金融機関を支援するというではないか。この「ゆとり~」の後始末を、安易な競売に任せ放しでは、イカンのではないか。

借主にも、自己(借主)責任があるのは、よくよく承知のうえだ。

2009年8月23日日曜日

子供の頃、盆踊りは「江州(ごうしゅう)音頭」だった

 

この時季になると、あっちこっちで、盆踊り大会が行われている。衆院選挙が近づいてきたので、立候補しているハチマキ姿の先生?たちは、盆踊りのハシゴをしては、なにとぞ1票をと、頭を下げ握手をしまくっている。そんな光景が、この場には似つかわしくなく、ウンザリだ。ここは、先祖の霊をこの世にお招きし、しばしの間、かっての友人や親族らと、また孫や子供の成長を確かめてもらったり、今生の我々と楽しく過ごしてもらうための聖なる催事の場なのですぞ。各地で行われている花火大会だって、先祖の供養のためだ。京都の大文字焼きもその類だ。

私が住んでいる権太坂では、毎年隣の境木地区と合同で、小学校の校庭を借りて行っている。役員さんたちが懸命になって、準備から片づけまで汗一升、脱帽ものです。古くからの役員さんには商店街の店主が多くて、かっては、酒もキャベツもパンツも商店街で買っていたから、まあ~いいかっ、と思っていたのですが、今は、商店街を利用することが少なくなったこと、役員さんの仕事の量を思うと、気が重くなって、正直スミマセンと思う。今年も、私は仕事だったのですが、家人は、長女夫婦に孫娘、次女夫婦に孫息子を伴って、楽しい時間を過ごさせてもらって満足していた。夕食の用意されてないジジには、焼ソバが土産だった。腹が減っていたから、旨かった。役員さんには感謝だ。

田舎から出てきて、この地に暮らして30年以上経つのですが、ここで行われる盆踊りには、未だに馴染めない。オバQ音頭も、アラレちゃん音頭も子供たちにとってはいいのでしょうが、大人が踊るのは「東京音頭」しかない。私にとって東京音頭は、どうにもしっくりとはいかないのです。新しくできた盆踊り用の曲も使われているようですが。田舎に住んでいた時から、東京は苦手だった。野球だって、読売ジャイアンツが一番嫌いで、次にヤクルト(国鉄スワローズ)だ。ロッテ(大毎オリオンズ)、横浜ベイスターズ(大洋ホエールズ)も大嫌いだった。そりゃそうでしょう、東京の学校に入るまでは、生まれ育った故郷は京都の外れの外れ、滋賀との国境の村里じゃ。阪神ファンに囲まれて育った。当然、首都圏を斜視に構えた。盆踊りはずうっと「江州(ごうしゅ)音頭」だったのです。

私の郷里は,行政的には京都府綴喜郡宇治田原町南切林で、琵琶湖から流れ出す瀬田川に田原川が合流して、宇治川と名を変えることになるのですが、この辺りの、かっては村合谷間の寒村だったのです。河岸段丘のわずかな平野部と、山の麓(ふもと)に、へばりついて生活していた。生家は、お米と宇治茶の生産農家です。今は小さなスーパーマーケットもできて、村から町へと変貌しつつあります。

誰もがそれぞれに、生まれて育った郷里の自分用の「盆踊り」をもっている。機会があれば、皆に聞いて回ろうと思っている。あなたの田舎では、どんな音頭で、盆踊りをしたの?盆踊りで唄われていた唄ごとに、全国地図を色で塗り分ける。私の生家は、住所は京都府でも一番滋賀県に近い所だったので、江州音頭だったのだろうと決め込んでいたのですが、京都市北区で育った家人に、小さい頃君はどんな音頭で、盆踊りをしていたかと聞いみたら、これが江州音頭だと言うではないか。京都市内でも盆踊りには、広く唄われていたようです。「炭坑節」は、全国的に知られた横綱格だ。「河内音頭」も有名だ。「花笠音頭」は盆踊りでも踊るのかな?。沖縄や奄美大島では、島唄風の音頭なのだろうなあ。

私の村(田原村)では、お盆(8月13,14,15日)になると、公民館の広場に櫓(やぐら)が組まれて、その櫓の上には唄い手が3人程と、太鼓や鐘を叩く人が2、3人、全員が輪になって外を向くのです。

♪、そりゃ~、♭、よいとよいや、まっかどっこいさのせーー、♯。

これを、一人の唄い手が唄い終えると、合いの手のようにして、唄い手たちも周りで踊っている人たちも一斉に唱和するのです。意味は理解していなかった。そして、次の唄い手にバトンタッチされるのです。唄い手ごとにオリジナルの物語を持っていた。過去の偉人とか、世事を面白おかしくストーリー立てにして唄うことも多かったようです。これを繰り返して、延々2~3時間ぶっ通しで続くのです。

毎年、盆踊りシーズンになると、この「江州音頭」が思い出され、いったいあの時に唄われていた文句(歌詞)は、合いの手も含めてどんなことを意味していたのだろうか。知る機会も調べる努力もしないまま、今まで遣り過ごしてきた。

今年こそ、この「江州音頭」を調べてみることにした。早速ネットで、江州音頭の普及会(077-528-3741)が滋賀県庁内にあること知って電話した。担当の人がいたのです。mizogutiさんでした。電話してきたことを、非常に喜んでくれたのが印象的でした。担当者の方から貰った資料の中から抜粋させていただいて、紹介することにしよう。

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滋賀県江州音頭普及会が発行している「滋賀の郷土芸能、江州音頭」から、「江州音頭とは」、と「江州音頭の発祥(祭文)」をここに引用させていただいた。

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★それでは、「江州音頭とは」ーーー。江州音頭は商い音頭ともいわれ、近江商人の影響も受けているようです。「さてはこの場の皆様へーー」から唄い始め、皆様に訴えようとしています。また、掛け声も「そりゃよいとよいや、まっかどっこいさのせー」と言いますが、宵(夜)からよいや真っ赤(朝になるまで)どっこいせーのせと、夜を通して徹夜で働いた姿を踊り子の掛け声にしているあたりも商い音頭と言われている由縁であると思われる。

『江州音頭』には屋台音頭(櫓音頭とも言う)と座敷音頭があります。

江州音頭は櫓やステージなどで口演(唄う)する踊り音頭(盆踊り唄)であり、リズム感があって太鼓や鉦、三味線など、にぎやかにお囃子が入ります。最近ではギターやドラムといった洋楽器とのコラボレーションも楽しまれている。座敷音頭は主に座敷で浪曲や浪花節調に、じっくりとした語りで物語を口演します。口演内容は、五穀豊穣の祈祷祈願や、喜怒哀楽を表現したり人の心の訴えを語り合う庶民の歴史があるように思われます。

★次に、『江州音頭の発祥 (祭文)』とは、---。滋賀県は昔、近江の国、また江州と呼ばれていました。この江州の名をとって江州音頭と名付けられました。江州音頭が大成したのは明治の初めです。しかし、その源流を訪ねれば、遠く奈良、平安の時代に遡ります。ところで、仏教のお経の節を「声明」と呼んでいますが、それは浪曲などあらゆる日本音楽の源と言われています。その流れが、「祭文」、「歌祭文」、「念仏踊り」、「歌念仏」、そして「音頭」へと発展してきました。

祭文とは、もともと山伏や修験者が神社・仏閣の祭りの中で神仏に告げる文のことです。それが室町から江戸時代にかけて祭文語りとして芸人達の間に広がるようになりました。祭文語りは村々を訪れ、伝承物語や他国の事情を語りました。娯楽も少なくまた情報にも乏しかった時代に、祭文語りは村々でもてはやされたのです。

幕末の頃、祭文語りの名人、桜川雛山に弟子入りし本格的に祭文語りの修行した滋賀県八日市の「西沢寅吉」は、念仏踊り、歌念仏も採り入れ「八日市祭文音頭」を完成させました。明治のはじめ豊郷の千樹寺観音堂の再建の折、西沢寅吉を招き、当日は彼の音頭に乗って村人たちも踊り明かしたと言われています。この音頭は豊郷・八日市を中心に近江路一帯に広がり、美濃や伊勢などにも評判が伝わっていきました。そして滋賀県の郷土芸能、江州音頭として定着したのです。

西沢寅吉は歌寅という通り名で、やがて、初代「桜川大龍」と名乗るようになりました。江州音頭は、桜川大龍とその良き協力者真鍮鋳物細工師の奥村久左衛門、すなわち、初代真鍮家好文によって発展し、お盆の定例行事として全国に知られるようになったのです。

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江州音頭の一つより

「花の生涯」

口演・桜川虎龍

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えー皆様たのみます  しばらくはヨイヤセの掛声を

さてはこの場の皆様へ  早速ながらで有るけれど

伺い上げます演題は

彦根の空に聳え立つ  天守閣こそ誰あろう

御高三十と五萬石  時は平成に変われども

後の世までも名を残す  幕末日本の先覚者

井伊直弼の物語り  これじゃからとて皆様よ

事や細かにこんな難声じゃ  程良くまいらね共

お粗末ながらも口演奉るわいな

 

そもそもえ初段の筆初め途中最中でわからねど

雲の流れと人の世は

どうにも成らぬと知りながら  徳川三百歴史に賭ける

花の生涯名も高い  人はそれぞれにお互いに

持って生まれた星がある

 

まさか大老に成ろうとは  夢にも知らず産声上げた

十四男の直弼が  彦根城主に成るなんて

誰にも解らず我が身も知れず  埋木舎で気侭な暮らし

石州流の茶を学び  山鹿流儀の兵法や

新心流の居合術  道楽修行で日を送る

 

待てば海路の日和有り  嘉永三年十月に

兄直亮の跡目を継いで  彦根城主に治まった

とんとん拍子に花が咲き  晴れて安政五年目に

徳川幕府の大老職

 

その身を任せる事と成る  外交内政の二文字に

賭けるこの身は命は一つ  長野主膳と力を合わせ

武士の意気地を天下に示す  勤皇佐幕の絡み合い

将軍様の跡取り騒ぎ  その上異国の黒舟騒ぎ

天下分け目の江戸の町

 

開国論に持ち込んだ  討幕論に火が付いた

一方立てれば一方が立たず  勇猛決断此処にあり

世に言う安政大獄の  火蓋は切って落とされた

国の大事を救わんと

 

五尺の身体にムチを打ち  名代の学者や政治家を

捕らえた事件が刺激して  水戸の浪士や勤皇志士

奮い立たせる事と成る  喩えこの身は散ろうとも

散らしちゃ成らない武士の意地  勤皇佐幕と言うけれど

国を想うは皆同じ  万延元年三月の

花のお江戸に雪が降る

 

桜田門の堀端で  「下に下に」の声がする

見れば大名行列で  尾張公のその後は

赤い合羽の供を連れ  井伊直弼の駕籠が行く

折から飛び出す一団は  白鉢巻に襷がけ

水戸の浪士が斬り込んだ

 

上を下への大騒ぎ  天命つきて直弼は

桜田門の花と散る  舞うは吹雪か牡丹の舞か

日本夜明けの鐘が鳴る  咲かぬ蕾に花が咲き

波乱万丈の人生を  侍ニッポン武士道に

賭けた男の物語り  ならばつなごと想えども

あんまりお長くなりますので

ここらで変り合うてつとめます

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注。手と足の動きについては、後日解説文を挿入します。それまでは、踊りたい人は自分流に、勝手に踊ってみてくださいナあ。スマン。

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☆ 右足を一歩前に。左を向く。

「右の品物如何ですか?」

★右手肩の高さ、左手をかざす。

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☆左足を前に二歩目。右を向いて

「左の品物どうですか?」

★左手肩の高さ、右手をかざす。

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☆ 右足を少し後ろに引く。体は右向き顔は後ろ向いて

「後ろにも品物あります」

★左手をかざして、右手は後ろ斜め下にかざす。

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☆左足を引いて右足に揃えて右足を踏みかえる。進行方向を向く。

「荷車で出発準備」

★両手を一旦後ろから前に出す。

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☆左、右と進む。進行方向に二歩進む。

「荷車でお届けにあがります」

★両手を自然に戻します。

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☆左足を右足に揃える。左向きに止まって、手を一度打つ。

「お買い上げありがとう、儲けさせていただきおおきに!」

★足が揃ったところで左を向いて手をポンとたたきます。

 

☆は手の動き、★は足の動きです。

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090902

朝日・朝刊に富山市の旧八尾町の盆踊りの紹介の記事が出ていた。「越中おわら節」で踊る「おわら風の盆」のことだ。昨日は、関東の東部に雨と風を伴った小規模な台風が、過ぎ去った。夏が終わろうとして、本格的な台風のシーズンに入ろうとしている。この踊りは、こんな時季に暴風からの無事や豊作を願っての祭り(?)だそうだ。「おわら」の語源を調べてみたのですが、昔から諸説あって「おわら」は大笑いとか、大藁とからしい。この踊りは、盆踊りでも、お祭りでもない、と言う人も多い。確定的な語源ははっきりしていないようだ。これだ、というお説をお持ちの方は、随時お知らせくださいな。広く世間の判断を伺いましょ。

以下は新聞記事から

坂の多い町並みは、夕暮れとともにぼんぼりに灯がともされた。胡弓と三味線の音色が風に揺れるなか、顔を隠すように編み笠かぶった踊り手たちが、列を作って静かに練り歩いた。しなやかな手の動きが哀愁を誘う踊りは、明け方まで続く。3日まで。

2009年8月19日水曜日

金大中元大統領死去

以後、090819の朝日新聞・朝刊(1面、天声人語、社説、2面)を、丸マル転載させていただいた。

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1面より。【ソウル=箱田哲也】

金大中元大統領死去

85歳、韓国民主化を主導

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韓国を代表する政治指導者で、南北朝鮮の和解・交流や日韓関係改善に尽くした金大中(キムデジュン)元大統領が18日午後1時43分、多臓器不全のため、入院先のソウル市内の病院で死去した。85歳だった。7月13日から肺炎のため入院生活を送っていた。60年代から民主化運動のリーダーとして軍事政権に抵抗し、73年には東京で拉致されて九死に一生を得ながら、97年度に4度目の挑戦で大統領に当選、初の南北首脳会談を実現させるなど激動の生涯だった。

李明博(イミョンバク)大統領は「偉大な政治指導者を失った。民主化と民族和解に向けた個人の熱望と業績は、国民に長らく記憶されるだろう」と哀悼の意を表した。北朝鮮メディアは18日夜までに報道していないが、金養建・朝鮮労働党統一戦線部長ら党幹部が弔問に来る可能性が指摘されている。

金大中氏は在任中、対話をもとに北朝鮮の体質変化を目指す「太陽(包容)政策」を掲げ、北朝鮮の金剛山観光など南北事業を次々と推進。00年6月、韓国大統領として初めて訪朝し、平壌で金正日(キムジョンイル)総書記と会談して南北共同宣言に署名した。00年には民主化運動と南北和解への貢献が評価され、韓国人として初のノーベル賞(平和賞)を受賞した。

対日関係の改善にも功績を残した。98年10月、大統領就任後初めて訪日。故小渕恵三首相との日韓首脳会談で「日韓パートナーシップ宣言」をまとめ、過去の歴史をふまえつつ未来を重視する「未来志向」の日韓関係を訴えた。

日本の植民統治下の24年に南西部・全羅南道の荷衣島で生まれ、61年5月に国会議員に初当選。直後の軍事クーデターで政権を握った朴正煕(パクチョンヒ)大統領の独裁に反対し、71年の大統領選に野党から立候補。妨害工作の中で、朴大統領に95万票まで迫った。

73年8月、東京のホテルから突然拉致され、殺されかかったが、5日後にソウルの自宅付近で解放された。情報機関・中央情報部(KCIA)の関与が濃厚だったが、日韓両政府の2度にわたる政治決着で真相は闇に葬られた。07年10月、KCIAの後身、国家情報院の真実究明委員会がKCIAの事件への組織的な関与を認める報告書を出した。

79年10月、朴氏暗殺後、軍事クーデターで全斗煥(チョンドウフャン)が実権を掌握。

80年5月の光州事件の首謀者として、内乱陰謀の罪で死刑判決を受けた。日米など国際社会の助命運動で減刑、釈放され、米国で事実上の亡命生活を送った。

85年2月に帰国し、87年6月の韓国の「民主化宣言」直後に公民権を回復。同年末の大統領選で野党のライバルだった金泳三(キムヨンサン)と候補一本化に失敗し、軍出身の盧泰愚(ノテウ)に破れた。

92年の大統領選は与党入りした金泳三氏に敗北し、政界引退を宣言。

だが、95年に復帰し、97年末の大統領選で政敵だった金鍾泌(キムジョンピル)元首相と組んで与党候補を破り、98年2月から5年間務めた。

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天声人語

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国や民族の苦難の歴史が、ひとりの政治家の人生に深々と刻まれることがある。元韓国大統領の金大中氏は、まぎれもなくそうした人だった。「波乱万丈」という言葉でさえ軽く響く85年の生涯を、きのう静かに閉じた。

日本の統治時代に朝鮮半島南部の島で生まれた。以来、死刑判決などで5度にわたって殺されかけたという。6年を獄中で過ごし、40年もの間、軟禁と亡命と監視の中で生きてきた。その来し方は、平和と民主主義に守られて暮らす者の想像を超える。

3度目に死に直面したのが、1973年に東京で起きた「金大中事件」だった。白昼のホテルから韓国の情報機関に拉致され、5日後にソウルの路上に放り出された。軍政下の不気味な事件として、その名を日本人の記憶に刻むことになった。

大きな功績は、独裁体制を終わらせ、民主主義の定着に尽くしたことだろう。98年には勝ち得た民主主義の下で大統領になる。やはり政治犯から大統領に就いた南アフリカのマンデラ氏と並び称され、ノーベル賞にも輝いた。

筋金の入ったその生き方は、「権利のための闘争は、権利者の自分自身に対する義務である」という欧州の古い言葉が重なり合う。圧政の中で人生に刻まれた幾多の傷は、闘いを挑んだ向こう傷として、今では誇らしい勲章に違いない。

愛妻家でも知られ、「私は生涯を通じて異性を本当に愛したことがない人には魅力を感じない」と述べていた。巨星は墜ちたが、生まれたばかりの雲になって、分断された民族の行方を見守っていることだろう。

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社説

金大中氏死去

日韓の新時代を開いて

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日本で最もよく知られた韓国の政治家ではなかっただろうか。金大中。元大統領が亡くなった。

韓国から見れば、金氏は自国の民主化や北朝鮮との平和共存とともに、あるいはそれに増して、日本との和解に心を尽くしたとの印象が深い。

歴史問題で日本の政治家らが不用意な発言をし、韓国は激しい反日ナショナリズムでやり返す。わだかまりも解けない。そんな関係を金氏は断ちたかった。植民地支配をじかに体験し、日本という国のありようを肌で知っているという強い自負と信念から、それを自らの課題としたのだろう。

大統領に就任した98年に来日し、当時の小渕首相と交わしたパートナーシップ宣言に、その思いは結実した。小渕氏が語った過去の反省と戦後日本の歩みを、韓国の大統領として初めて文書で評価し、未来志向の関係構築をうたい上げた。

韓国内に慎重論が根強いなかで、日本の大衆文化開放にも踏み切った。文化が活発に交流するようになって互いに隣国への関心が高まり、日本での韓流ブームにもつながった。

サッカーW杯の日韓共催をへて人の往来は格段に太くなった。65年の国交正常化時の年間1万人が、いまや「500万人時代」だ。経済の結びつきも強まり、すでに日帰り出張圏である。

任期後半に当時の小泉首相が続けた靖国参拝や教科書問題できしみはしたが、日韓の関係が質、量ともに格段に深まったのは間違いない。金氏が強いリーダーシップをもって果たした役割を心に刻んでおきたい。

信念の追求は、分断国家の南北関係でも発揮された。ときに融和すぎるとの批判も浴びつつ、北朝鮮を変えるには交流と協力を重ねて関与するしかないとの思いは一貫していた。「成功には『書生的な問題意識』と『商人的な現実地感覚』が必要だ」。本紙との会見でそう語ったことがある。金氏の政治姿勢は、それをまさに地でいくものだった。

執念の大統領当選のために、かっての政敵と手を結ぶこともいとわなかった。南北首脳会談の直前に北へ5億ドルの不正送金があったと後に明らかになった際、「北の政権は法的には反国家団体だが、和解協力の対象でもある。非公開に法の枠外で処理せざるをえない場合がある」と釈明した。

一方で現実の壁の高さに苦しみもした。金氏の期待に反し、北朝鮮は核やミサイル開発を続け、解決の展望はなお開けない。日韓関係も歴史や領土問題ゆえに一筋縄ではいくまい。

来年は日本が朝鮮半島を植民地にした「韓国併合」から100年。隣国との歴史を顧みる契機である。金氏が切り開いた道を踏みしめ、これからの両国関係を見据えたい。

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2面より。

死線越え続けた哲人

金大中氏  民族融和へ忍耐貫く

(本社コラムニスト=若宮啓文)

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不死鳥のような鉄人にして哲人の政治家ーー。アジアの民主化を象徴する人物が逝った。まさしく巨星墜つ、の感が深い。

「金大中」の名を日本中の人が脳裏に刻んだのは、1973年の夏。東京のホテルからこちぜんと姿を消し、5日後にソウルの自宅前に放り出された。韓国情報機関の仕業であり、船上から危うく海に投げ込まれそうになったが、九死に一生を得たのだと後で分かる。

このとき「たとえ下半身はフカに食われても、上半身だけでも生きたい」と願ったという金氏は、軍事独裁政権を率いる朴正煕大統領にとって、目の上のこぶだった。

71年の大統領選に善戦した後に交通事故を仕組まれ、一命をとりとめたが、生涯足を引きずる体となっていた。くしくも東京で拉致された日に発売された月刊「世界」で、「軍隊の発想はエネミー(敵)だけあってライバル(好敵手)というのがない」と軍事政権の本質を問い、民主化への情念を語ったものだ。

拉致事件の後、3年近くに及んだ獄中生活で激しい監視と孤独に苦しんだ。朴大統領の暗殺後にようやく訪れた「ソウルの春」もつかの間、軍人の全斗煥氏が権力を握るや再び逮捕。国家反逆者の汚名を着せられて一時は死刑判決も受けた。こうして何度,死戦を越えたことだろう。

だが真骨頂は、それでもついに民主化の中で権力の頂点を極めたこと。権力への執念は、時になぜこれほどかと思わせたが、大統領になって平壌を訪れ、南北首脳会談を開いて世界を驚かせたとき、ナゾの一端が解けた。

太陽政策は、これぞ北朝鮮を変える唯一の道だという強い信念に基づいていた。南北共同宣言で思いを実らせてノーベル平和賞も手にしたが、誤算だったのは北朝鮮の並はずれたしたたかさに対して、この政策が求める大きな犠牲と忍耐の精神に、味方が耐え切れなかったことだろう。

米国はブッシュ政権が北風を吹かせ、日本では拉致問題で空気が一変する。不信の悪循環が始まって、やがて韓国も保守政権に。そこに現実政治の大きな限界があった。地域対立や過去を引きずる保革対立など、国内に横たわる大きな溝を埋められなかったのも響いた。

南北会談から9年、この4月にソウルで金氏にインタービューした。ミサイルや核実験をめぐる様変わりにいら立ちながらも、「北は非常に扱いにくく難しい国だからこそ、忍耐が必要なのです」と語る口調に迷いがないのは不思議なほどだった。朝鮮戦争のとき北朝鮮に捕らえられ、初めて死のふちをのぞいて以来、憎しみよりも、民族和解と統一への強い願いが体に染み付いていたのだろう。

その精神は日本に対しても発揮された。98年の来日でも小渕首相と交わした日韓共同宣言は、両国の「和解」を鮮明にして歴史的だった。それだけに小泉首相の靖国神社参拝は裏切りに思えたのだろう、悔しさを最後まで口にしていたが、この共同宣言が放つ輝きに変わりはない。

熱心なカトリック信者だったが、中国などのアジアにこそ古くから民主主義の発想があったというのが持論。孫文のアジア主義にも通じる思想で、東アジア共同体構想に熱心だった。最愛の李姫鎬(イヒホ)夫人が差し入れた万巻の書を獄中で読み、後のIT立国につながる構想も考えた知力と胆力には驚くしかない。

何度かお目にかかるたびに姿勢を崩さず、流暢な日本語を使って熱い政治哲学を聞かせてくれた。大統領就任から間もないころ、激しい経済危機に見舞われて「反独裁で戦っていた時とは比べものにならない苦労だ」と苦笑いしていたのも記憶に残る。

乗り越え続けた死線だが、寿命には逆らえなかった。民族の行く末を見届けられなかったのが悔しいだろう。

 

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000613 南北首脳会談(平壌)

 

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1980年8月軍事裁判(光州事件の首謀者として)

 

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1981年国家保安法違反で死刑判決/清州刑務所

 

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1997年12月大統領選にて当選

 

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00年12月 ノーベル賞(平和賞)受賞

 

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02年3月 日韓W杯/小泉純一郎首相

2009年8月17日月曜日

イタリア秘蔵 古代の美

090810、このブログで朝日新聞の告知広告を拝借して、「トリノ・エジプト展」が、東京・上野の東京美術館で開かれていることを紹介した。その告知広告の紙面には、神秘的な彫像の写真が載っていたので、これを見過ごすだけでは勿体なくて、私のPCにパクらせてもらった。そして、これからも次々に告知広告が出て、その度に、美術品が紹介される筈だから、それを楽しみに待とうと書いた。

そしたら案の定、090813、朝日朝刊に「トリノ・エジプト展」の2回目の告知広告が出た。早速、写真と文章をそのままパクらせていただこう。

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暗闇に浮かび上がる彫像

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イビの石製人型棺の蓋

大神殿の財宝を管理していた役人イビの石棺。ペケン石と呼ばれる硬い、金属光沢のある石で作られている。硬い石ほど加工が難しいはずだが、繊細な装飾が施されており、イビが最高級の最高級の芸術家を雇う力を持っていたことを示している。

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現世は仮の世界ーー多彩な木棺

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ミイラの上に中蓋を置く3層構造の彩色木棺

古代エジプト人にとって、現世は仮の世界に過ぎなかった。人は死ねばオシリス神となり、死後に再生・復活するーー。そんなオシリス信仰が紀元前22~同18世紀、大衆に広がっていた。

そのために欠かせなかったのが、遺体を保存するためのミイラづくりだ。彩り豊かな棺、火災に遭った棺、死後男性に再利用された女性の棺ーーー。

遺体を納めたさまざまな木棺や、遺体と一緒に埋葬された副葬品を紹介している。

遺体から取り出された臓器を入れるカノボス容器や、死者の代わりに働く人形シャプティを納めた箱なども並ぶ。

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職人たちの生きた痕跡

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ディール・アル・マディールから出土した手ほうき

紀元前16~同11世紀

3千年前に生きた古代エジプト人たちはどんな生活をしていたのだろうか?その疑問に答えてくれそうな道具類が並んでいる。

ノミや木槌、手ぼうき、--。新王国時代にファラオたちの墓づくりに携わった職人の町「ディアール・アル・マディーナ」で出土した品々だ。王墓から徒歩で通える場所に職人たちが集落を築き、世襲制で墓づくりをしていた。

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冥界へ死者運ぶ葬送船

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葬送用模型船

紀元前20~同17世紀

死者が再生に向かう道すじ。亜麻布で巻かれた2体のミイラが目を引く。大人のミイラは20世紀初頭に王妃の谷で発掘されたハルフという名の男性のもの。その手前に並ぶのは、少女とみられる幼い子どものものだ。

本展は、墓に納められた模型船で締めくくられる。ナイル川が唯一の交通手段だった古代エジプト人たちにとって、冥界へ死者を運ぶ手段も船だった。死者の住む場所「イアル野」も、ナイル川流域のエジプトと同じ風景と考えられていたようだ。

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古代エジプト人が信仰した神々

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ハヤブサ、トキ、ジャッカルの小像

紀元前2~同1世紀

人間の力を超えるものをあがめていた古代エジプト人は、太陽や月などのほか、ハヤブサやライオン、ヘビなどの動物を神として信仰していた。一方で、祖先に対する供養も盛んに行っていた。

三つの動物の小像は、神を象徴するハヤブサ、トキ、ジャッカルをかたどったもので、同じ神官の墓から出土した。台座正面には死者の名が、側面には死者の墓を守るようにと神への祈りが記されている。

2009年8月16日日曜日

「恥辱」、本の題名にどっきり

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何となく、本の題名の奇抜さに、どっきりして、手にとって最初の2ページと中ほど2ページを読むと、これが面白そうだったのです。何やら、楽しませてくれそうな予感がした。早速買った。あっと言う間に読了。読み終えてから、読書好きな友人に、この本の内容を紹介しだした途端、友人の視線が急に輝いてきた。読書好きの友人に、面白い本を紹介して相手を悔しがらせるのが、楽しみの一つでもあったのです。まさか、ヤマオカ、それって、君の大好きなナントカ オフの105円コーナーで買ったのか? ときた。ニンマリそうだと答えた。

友人はその本を、かって買いたくて買いたくて、手に入れるために四苦八苦したことを話した。友人は古本は買わない主義だった。インターネットで買えることは知っていても、仕事の関係上受け取る方法が面倒くさいとのことで、本屋さんで買うしかなかったのですが、兎に角手に入るまでは、大変苦労したそうなのだ。

ナントカ オフの105円コーナーは面白い。その店に行ったときには、1000冊ぐらいの本のタイトルと著者をバアーと一通り見回す。その都度気になった本を取り出して、数ページ読んでみたり、ストーリーやら著者の後書きなどを読んで、自分の関心の深度の加減から5冊ぐらいに絞って、それから最終選考に入ります。関心の深度順もあるのですが、やはり最終的な選考基準は懐具合です。今日の昼飯のこと、今夕の立ち飲みのことを考慮して、購入する本の冊数を決めるのです。

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「恥辱」

J・Mクッツエー/訳=鴻巣友季子

〈ブッカー賞〉

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52歳のケープタウン大学教授デヴィッド・ラウリーは、二度の離婚をし、その後は、週に一度は娼婦を買いに行き、その女が田舎へ帰って、手持ち無沙汰にしている頃に教え子の女学生をたぶらかして、関係を持つ。だが、その教え子との関係を持った時から事態はすっかり変わった。そのうちその学生から関係を強要されたと告発される。教授の職を辞任に追い込まれてしまったのだ。教え子からは、その目に唾を吐きかけるてやる、とまで恨まれてしまった。

仕事も友人も失った父デヴィッドは、娘ルーシーが切り盛りする田舎の農場へ転がり込む。ルーシーは、近所の犬を預かり、羊を飼って、花を育てて市で売っていた。ルーシーは親の許を離れてから、ヒッピーになり、女一人では危険千万なこの地で、同性愛者になったりしながらも、実に立派な農婦になっていた。誰からも見捨てられた彼を受け入れてくれるルーシーの温かさ、自立した生き方に触れることで恥辱を忘れ、粉砕されたプライドを取り戻そうとする。

こんなラウリーの今までの生活こそが恥辱だったのか。

恥辱とは=はじ。はずかしめ。不名誉(日本語大辞典)。英語では、disgrase。

ラウリーがお世話になって間もなく、ルーシーは黒人3人組に襲われた。アパルトヘイト時代とは、逆になっている、黒人が白人を襲うのだ。家財は盗まれ、3人にレイプされた。ラウリーは殴られ部屋に閉じ込められ、ルーシーを助けてあげることはできなかった。

傷ついたルーシーは、ぼんやりとしてベッドに横たわったまま、ラウリーが声を掛けても、生返事だった。前の妻、ルーシーの母がいるオランダに、少しの時間だけでも気分転換に行ってみないかと進めるが、強情にもこの地を離れたくないと言う。ラウリーは犬の処分に精をだしていた。犬にこの世の最後の注射を打つ動物クリニックのお姉さんともエッチをする。

隣地にルーシーの農場を虎視眈々と狙っているペトラスがいた。ルーシーを襲った仲間のなかに、若造がいたのですが、この若造がペトラスの親戚だという。そして、ルーシーが襲われレイプされた時に妊娠してしまったようだ。それも、その若造の子どもらしいのだ。

この辺りから、話が混乱してくるのです。

ペトラスは「あの悪ガキとルーシーは結婚する。だが、まだ若すぎる。たぶんいつかはルーシーと結婚するが、いまはだめだ。おれが結婚する」と言う。可笑しな話だ。「ここは、あまりにも危険だ。おれと結婚すべきだ」と続けた。これは結婚ではない。狙っているのはルーシーではなく、農園なのだ。

ルーシーのお腹は日に日に目だって大きくなってきた。望まぬ子ども。心配する父、ラウリー。再三再四、オランダ行きを勧めるが、その気はさらさらない。

話は、どんどん究極の迷路に突入する。

ルーシーは次のように父ラウリーに話した。私は彼の保護を受ける。支配下に入る。私たちの関係についてどんな筋立てを世間に公表しようと構わない。三人目の妻としてでも、構わない。愛人でも同じことよ。子どもは家族の一員になる。土地については、家屋が自分の物として残れば、土地の譲渡にサインする。だが、家は私の所有だ。この家には私の許可なしには誰も入れない。ペトラスも入れない。犬舎も手放さない。

落ち着きを取り戻したルーシーは良き母になってみせる、善き人になってみせると、父に宣言する。そしてあなたも善き人になって、と父に諭す。父も、不器用ながら、再生を試みる。ラウリーは、自腹でトラックを買った。そのトラックで、動物クリニックで、殺されていく犬の亡骸を黒ビニール袋に詰めて、焼き場に運ぶ作業に明け暮れる。

ルーシーは花に囲まれ、野良仕事に勤(いそ)しむ。立派な百姓だ。彼女の体内からは新たな存在が生まれてくる。

話の結末は、どうもスッキリしない状態のままだ。これで終わっちゃっうなんてーーーーー。

読者の私は、ぽつっうんと、一人置いてきぼりにされたような気分になった。

不条理な強盗レイプ事件に対しても、めげずに強く生きるルーシー。犬の亡骸を運ぶラウリー。犬のように生きていくんだ、と。その生き方が恥辱とはーーー、そんなことはないはずだ。

*「不条理」を辞書で調べたら、以下のように書かれていたので、挿入した。(本来は理性や良識に反するばかげたこと、の意)実存主義のことば。カミュによれば、不条理から目をそらさず、最後まで不条理と闘い、反抗しながら生きることに、人間の尊厳や自由があるとした。

それとも、国が社会が恥辱なのかーーそんなこともない。

 

★「恥辱」は、南アフリカ共和国の作家J・Mクッツェーの小説。ブッカー賞を受賞。200年には、ノーベル文学賞を受賞している。

★訳者あとがき=『恥辱』では、アパルトヘイト撤廃後の新生南アフリカの不穏な情勢を背景に、まさしくあらゆるものの価値観が揺れ動く。ひとの栄辱 とはなにか。魂のよりどころはどこにあるのか(そもそも魂はあるのか? )。頻発するレイプ、強盗事件、失業、人種間の対立、動物の生存権。ひとりの男が味わう苦境には、現在の南アの社会的、政治的、経済的諸問題が映し出されている。

2009年8月14日金曜日

自、民でもない強い第三極集団を求む

自民党の総裁で内閣総理大臣の麻生太郎首相と鳩山由紀夫民主党代表は、長崎「原爆の日」の9日、長崎市を訪れ、核兵器や安全保障政策をめぐって、それぞれ発言した。

ここで、もう一度振り返って考えてみよう。何年か前に、日本にも2大政党制がいかにもふさわしいかのように、小選挙区制が実施された。あたかも、この世の理想的な選挙制度のように。でも今こそ、ここで暫し立ち止まって、本当にこの制度がよかったのかどうかの検証が必要なのではないか。今の日本で、2大政党の2党とも頼りにならなければどうなるの?第三極なのか第四極なのか、2大政党を脅かす勢力が必要なように思う。

そして、今日は(20090810)、今月の30日に衆院選挙が控えている。民主党は、政権交代実現を夢見、うっかりぼんやり、現(うつつ)を忘れたように、政権交代の一辺倒。方や自民党は、今までの正負の成果を何もかも投げ捨て、面(つら)の皮の鍍金(メッキ)もすっかり剥がれ、ウロチョロの朦朧状態だ。自党の政治の責任力だけを強調している。バカか?こんな政治状況を作ったのは、自民党ではないか。

こんな2大政党に、国の将来を託することができますか。

何故、この私がこんなに感情的になっているのかと言えば、20090810の朝日新聞(朝刊・1面)の記事を読んで、両党首の発言にウンザリしたからだ。私は怒っている。戦争を、戦場を知らない政治家どもの、なんと見識のない発言よ。どちらの政党にも、国の将来を委ねる気持ちにはなれない。戦争を、戦場を直に体験した政治家たちは、二度とどんなことがあろうと戦争を起さないように、生涯をかけて反戦の決意を表していた。そのような硬骨な反戦政治家は、与野党にかかわらず、少なくなかった。自民党の宮沢喜一、後藤田正晴は現行憲法を守ろうとした重鎮たちだ。野党の方には、労働運動の闘いの中から反戦の闘士は数多く輩出した。額に絆創膏がよく似合う政治家、そんな馬鹿孫をもつ羽目になった偉大な政治家ー赤城宗徳もその一人だ。

9日は、長崎の64回目の原爆の日だった。

ところがじゃ。世界の恒久平和のために、核の廃絶を世界に向かって訴える記念すべき日なのに。

★首相は、日本が「敵基地攻撃能力」を持っていないことに関して、日米の役割分担を協議する場の設置を考えるべき、と発言した。政府の「安全保障と防衛力に関する懇談会」は4日に、首相に提出した報告書で、攻撃能力保有の可能性も含め、検討するよう提言した。ーーーーー私=敵基地を攻撃するための能力を持つべきだとのことか。本気か?

首相はまた、米国に核の先制使用をやめるよう求めるべきだとの意見について「日本の安全を確保するうえで現実的にはいかがなものか」と否定的な考えを示した。ーーー私=米国の核の先制的使用を認めるってことか。これも本気か?

★鳩山代表は、非核三原則の法制化を検討する、と発言した。この法制化について「検討することを約束したい」と明言した。この発言には真剣さがうかがえない。ここに至るまでの1ヶ月の間に、鳩山代表の発言はぶれっ放しだったからだ。

まずは、7月14日、非核三原則について、現実的な対応がなされている。必要性があるからこそ、その方向で考えるべきだ。ーーーーー私=その方向ってどういう方向のこと? 非核三原則が守られていないと考えているのか。守られていると考えているのか。

7月15日、現実問題として、今米国が核を搭載した船を寄港させる意味はない。非核三原則は守られているーーーーー私=これは前日の発言を党内からの圧力で訂正したの? それとも社民党の圧力か?守られている? から、このままでいいってこと?

8月4日、非核三原則は国是のようなもの。法律は変えられる危険性も逆に持つ。ーーーーー私=国是のようなものだから、法律では変えられない、ということなの? 国是でも法律で、変えられる、ということ? 危険性って何?

8月9日、法制化というやり方もある。党としてしっかり検討を約束したい。ーーーーー私=発言にぶれる党首に社民党あたりから、圧力がかかって、意に反してこんなことを言っちゃったのではないの?法制化って、何をどう法制化するつもりなんだ。 ところで、鳩山代表の本音は?

鳩山代表には、非核三原則についてワンフレーズで自分の意見を言い表わすことができない。民主党は、非核三原則を守るの、守らないの、このどっちかに尽きるのではないのか。こんな大事なことを判然(はっきり)と言い切れない者を、国の代表になって貰っては困るのです。危険な臭いがしてしょうがない。スッキリしない民主党の代表だ。

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この両党首の発言を聞く限り、平和を望む私は、何れの党首にも国政を任せられない。強く健全な第三極を担える政党が育つことを願う。

安全保障の問題に不安があるのです。その第三極集団とは、日本国憲法第九条を守ろうとする集団であること。改憲、加憲とかではなく、絶対現行の憲法を守る。日本の自衛隊は専守防衛のために存在する。日本は他国に対して絶対戦争をしないという最強の国をめざす。集団自衛権を認めない。日米とか、狭いイデオロギーに埋没するのではなく、広く多くの国との協調を旨とし平和条約を締結する。日米は同盟ではなく非常に親しい国同士とする。米国の核兵器による抑止力に依存しない。全ての国が非核三原則を守るよう先進的に行動する、そして今ある核兵器の廃絶を実現する。国家間の問題(トラブルを含めて)は、全て国際連合のような国際機関が中心になって解決できるようにする。

社会保障も、経済政策も大事だけれど、この安全保障の問題がハッキリしないと何もかもが始まらない。このようなスローガンをマニフェストにするグループが生まれないものか。

政治が混乱してくると、欧州でもそうだったけれど、変なグループが出現するのです。今回は「幸福実現党」だ、なんじゃ、これは。

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そして翌日。

何故、上の方の文章を綴ってしまったのか、その背景、平和原理主義者の私の魂胆は何だったんだろうか、と考えた。

8月は広島に長崎に原爆が落とされ、そして終戦した。毎年8月になると原爆の慰霊祭がおこなわれ、終戦記念日には全ての国民が二度と過去の犯した過ちを繰り返さないことを誓う、そんな貴重な月間なのだ。そして反戦の決意を確認するのです。戦争体験者は、あらゆる手段を使って、次の世代の若者たちに伝える。

世界には永世中立を宣言している国もある。戦争を放棄して軍隊をもたないことを憲法の中で決めている国も数々ある。そして、思い出してもらいたい。北朝鮮がこの前の前、ミサイルの発射実験をしたときに、沖縄海域に大挙してアメリカの海空の軍艦やなんとか艦船が、日本や韓国を守るためとかで集まった際に、本土では目だった動きはなかったが、沖縄県民は、駆けつけたアメリカ軍に対して、帰れコール運動をおこした。

この運動の意味を理解しなければならない。アメリカが軍を動かすことの怖さを、これから起こり得るかも知れないヤッカイナコトを沖縄の人々は体験的に予感したのです。彼等の判断は正しいのです。

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全然話は変わりますが、「出穂」をなんと読むか知っている人はいますか?

私は、今、テレビの天気予報で知りました(090814)。

読み方は「シュッスイ」です。意味はそんなに難しくありません。文字通りです。=稲などの穂が出ることです。『広辞苑』より

2009年8月10日月曜日

ツタンカーメンがやって来た

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トリノ・エジプト博物館の彫像ギャラリー

090801から東京・上野美術館で、トリノのエジプト博物館が所蔵する優れた美術品の展示が始まったとの開催告知広告が、朝日新聞に、案内と解説とともに展示品の写真も掲載されていた。東京まで行く心と費用に余裕の無い今の私には、この記事を保存させてもらうだけで楽しもうと思う。「少年王」ツタンカーメンとアメン神の彫像の写真が載っていて、これはパクらせてもらうしかないと決心した。一度パクらせていただければ、私のファイルの中でなら、何度でも楽しめるではないか。また、この期間中、再度この展示会に関する告知広告が出る筈で、その時にも必ず違った美術品の写真を載せてくる。その時をとらえて、その写真もパクらせてもらうようにしよう。ちょっと罪っぽい、生来の収集癖です。

エジプト美術がなぜ、イタリアなんだという疑問にもこの記事では答えてくれている。先ずはそこのところから転載を始めましょう。

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死者の書

トリノはイタリア北西部に位置するピエモンテ州の州都で同国第4の人口を抱える。古くはサボイア家の作ったサルデーニャ王国の都として栄え、1861年から3年余り、イタリア統一後初の首都が置かれた。エジプト博物館は、トリノの旧市街の中心部にある。

骨格が築かれたのは19世紀にさかのぼる。当時は欧州各地でエジピト美術の収集が盛んだった。サボイア家も、ナポレオンのエジプト遠征に従軍し、後にフランス総領事になったベルナルディーノ・ドロベッチィが集めた美術品を購入した。現在の所蔵数は3万点を超える。古代エジプトの研究者にとって、エジプト博物館は必ず立ち寄らざるを得ない場所だった。

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歴史から消し去られた少年王

西村令奈

090731  朝日新聞

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1920年代、黄金のマスクをはじめとする豪華な副葬品が納められた王墓が発見されるまで、存在を歴史から抹殺されていたツタンカーメン王ーーー。約3300年前のエジプトに生きた王の姿を表した彫像は世界でも数少なく、トリノ・エジプト博物館は門外不出としてツタンカーメン王の石像を守り続けてきた。その彫像が日本で初公開される。

高さ2メートルの石灰岩でできた大型彫像で、向かって右側に小さく表されたのがツタンカーメン王、左側がアメン神だ。ツタンカーメン王がアメン神の肩に手を回している。紀元前1300年ごろの像でありながら、顔にほとんど損傷がなく、身体の線や細かに刻まれた衣装のひだが美しく、当時のままに残されている。

「少年王」ツタンカーメンは、多神教から一神教(アテン神)への宗教界改革を起こした父アクエンアテン王の後に若くして王位を継いだ。即位当初はアテン神を信仰したが、後に旧来の多神教を取り戻した。神々のなかでも当時強大な力を持っていたアメン神への忠誠を示すためにツタンカーメンが小さく表現されているという。

ツタンカーメンら宗教改革に関与したとされる王たちはその後、彫像などの名前を書きかえられ、歴史から消された。この彫像も別の王の名前が示されているが、顔の特徴などからツタンカーメンであることは明らかとされている。

展覧会の監修者で、早稲田大学文学学術院の近藤二郎教授は、「ツタンカーメン王を表した大型彫像が完全な姿で残っているのは珍しい。王の信仰を示す重要な彫像だったのではないか」と話す。

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アメン神とツタンカーメン王の像

これは反戦映画だ。「セントアンナの奇跡」に泣いた。

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090807

セントアンナの奇跡」

スパイク・リー監督作品

新宿テアトルタイムズスクエア

19:00~

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三女と二人で観てきた。大人の映画に付き合ってくれるのは、彼女だけだ。家族連れで今まで観た映画は、代表的なもので、あられちゃん、ドラエモン、オバQ、アンパンマンだった。子どもが小さかった頃は親子で、そして今は孫、親子三代で観ることになった。これらの子供向きの映画も頑張って観て、子供と同じように楽しめたのは半分ぐらいで、後の半分は寝に来たのではないかと、我ながら恥ずかしくなるほど熟睡してしまう。不思議なことに、なぜか鼾をかかないのは、せめて最小のエチケットは守っているようだ。我が家人は、子どもの成長に合わせて、それなりの映画を時々観ているのです。うまくやっているようだ。

今回は三女から声がかかった。映画好きの彼女から映画の題名を知らされ、調べたら、私(実際には、私の妻名義です)が株を保有する会社で上映していることを確認した。ささやかな株主に対する優待券だ。

東京テアトルです。

第二次世界大戦中に、イタリアのフィレンツェでアメリカの歩兵部隊に所属する黒人部隊の偵察隊4人が、ナチスの虐殺から逃れてきた一少年と戦火のなかで巡り会う。アメリカ正規軍のなかで、黒人部隊は最も危険な場所で、最も過酷な任務を強いられていた。心優しいアメリカ軍の偵察隊4人がこの少年を命をかけて守ろうとする。4人の一人、巨体の兵士(チョコレートの巨人、と愛称されていた)は、お守りのように、頭部の彫像を腰にぶら下げて、片時も身から放そうとしない。4人のなかでも、巨体の兵士は、一番親身に病気の少年を介抱した。巨体の兵士は、ノロマで頭が悪く、だが敬虔なクリスチャンで、戦場でありながら人など殺せるような兵士ではなかった。無類の優しさをもっていた。ある村にたどり着いた。しばしの安らぎのなかでの村民やパルチザンとの交流、そしてパルチザンの仲間別れ。その安らぎもつかの間だった。誰が情報をもらしたのか、ナチスの総攻撃を受けて、そこの村民らも、パルチザンも偵察隊も撃ち殺される。その情報をもらしたと思われる者はいた。村は殲滅された。負傷しながらも辛うじて生き残った一兵士が、その少年にキリストの十字架を首にかけてあげる。去りゆくナチスの一兵士が、たった一人生き残った兵士にこれで自分の身を守れと、一丁のピストルを与えた。兵士は、アメリカ軍に救助された。少年も生きながらえた。

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その村の名は、トスカーナ。頭部の彫像は、サンタ・トリニータ橋に、メディチ家の結婚を祝って作られた四季の彫像の一つだった。ナチスの攻撃で橋は破壊され、行方不明になっていた、春のプリマヴェーラだったのだ。

そして、60余年後、現代のニューヨークで郵便局員が、切手を買いに来た客をピストルで撃つ。壮絶な殺人事件と、心穏やかな犯人。殺された男は、かってのフィレンツェでしばしの安らぎを味わった村で、仲間を裏切ったパルチザンの一人だったように私は思ったのだが、これは確認中です。巨体の兵士がお守りのように大事にしていた頭部の彫像は、犯人の自宅で見つかる。

やがて、助けられた少年は事業家として成功した。ある日、カフェでコーヒーを飲んで新聞を読んでいた。その新聞で、ニューヨークで起こった郵便局員による殺人事件と、頭部の彫像が犯人の自宅から発見されたことを知った。

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犯人の保釈金100万ドルは、かっての少年、現在の実業家が負担した。そして終幕には、二人が海岸で会い抱き合うのでした。

戦争中の頃、黒人達はアメリカ社会においても、軍隊の内部ならなおのこと、厳然として黒人差別があった。

本気で、為政者や人権運動家が、公然と黒人差別をなくそうと叫んだのは、ずうっと後のケネディ大統領だった。この映画の時代の20年後のことだ。それまでは、黒人差別が常態だった。ケネディは、1963年にダラスで凶弾に倒れるのだが、やっとこの時期にきて、大統領は、議会において公民権運動に取り組もうとしていた矢先のことだった。そしてキング牧師らが公民権獲得、黒人差別撤廃を掲げて、ワシントンに向けての大行進が始まった。「私たちには、夢がある」と人種差別のない社会を目指し、have a dream と唱和した。

そして、今のアメリカ大統領はルーツをアフリカの故郷にもつ黒人のオバマだ。アメリカは黒人の社会でも白人の社会でもない、ここはいろんな人種が融和するアメリカだと宣言した。

追記。映画を観終わってから、アメリカ軍やドイツ軍、それにパルチザンはいたけれど、何故イタリア軍が出てこないのか、と疑問した。この時点ではイタリア軍は、既に連合国側に降伏していたそうです。でも、ドイツ軍はイタリア攻撃を止めるどころかどんどん進軍していた。

---------------以下は、プロブラムより---------------

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★現代、ニューヨークの殺人事件。1944年、フィレンツェの消えた彫像事件。

2大陸、2つの時代を結ぶ謎が今、明かされる。-----

1983年、アメリカ、ニューヨークの街に、衝撃が走った。郵便局員が、窓口に切手を買いに来ただけの男を、顔を見るなり突然射殺する。犯人の局員は、前科もなければ借金もない。精神状態も良好で、25年間仲睦まじく暮らした妻は病気で亡くなり、定年退職の3ヶ月前だった。

さらに不可解なことに、局員の部屋から、彫像の頭部が発見される。それは、イタリアのフィレンツェのサンタ・トリニータ橋を飾る「プリマヴェーラ」で、歴史的に大変貴重な作品だった。1944年にナチスが橋を破壊した時から、行方不明なっていたのだ。

いったい郵便局員と男の間に何があったのか?なぜ、闇市場に出せば500万ドルはするという美術品が、局員のクロゼットの中に眠っていたのか?

すべての謎を解く鍵は、彫像が消えた1944年のイタリアにあったーー。

★1944年、イタリアのトスカーナの村に、奇跡が起こった。

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この子を守りたいー黒人兵の願い。

それは、第二次世界大戦の真っ只中だった。郵便局員は兵士として、イタリアのトスカーナで戦っていた。彼が所属するのは、第92歩兵師団、バッファロー・ソルジャー。アメリカが過酷な「最前線」に送り込む、黒人だけの部隊だ。ナチスが待ち受ける中、偵察隊として彼を含む4人の黒人兵が川を渡ることに成功するが、その中の1人が爆撃に倒れた少年を助けたことから、彼らはそのまま部隊とはぐれてしまう。

少年を見殺しにできなかった優しい兵士の名はトレイン。フィレンツェで拾った彫像の頭を、お守り代わりに持ち歩いている。少年が足手まといだと怒るのは、いつも自分勝手なビショップ。無線兵のヘクターはイタリア語が堪能で、首から下げた十字架にキスをするのが習慣の信心深い男。彼らをまとめるリーダーが、知性溢れるスタンプスだ。

少年にはどこか不思議な雰囲気があった。自分だけに見える「友達」がいるらしい。少年は、初めて見る黒人であるトレインを「チョコレートの巨人」と呼び、彼にはすぐに心を開く。大きな体に純粋な魂を宿すトレインは、少年には何か神秘的な力があると信じるのだった。

★村を守りたいートスカーナの人々の願い。

4人の黒人兵は、少年の治療と食料を求めて、村を守るという言い伝えのある〈眠る男〉の山のふもとに辿り着く。彼らはレナータという英語の話せる美しい女とその家族に、強引に世話になる。

ケガから回復した少年が”友達”に「助けてあげる?」と話しかけると、壊れていた無線機が急に音をだす。それを見たヘクターも、少年の不思議な力を信じ始めるのだった。無線機からは白人大将の無謀な司令が流れる。ナチスに囲まれた村で孤立しているというのに、自分達でナチスの兵士を捕虜に取れというのだ。

村に足止めされる日々のなかで、4人の兵士と村の人々は、徐々に心を通わせる。黒人を知らない彼らに、偏見はなかった。故郷アメリカでは、人種差別で辛い思いをしてきた。そして今、国のために戦っているのに、黒人兵の命は紙くず同然に扱われている。イタリアの空の下で、ビショップはレナータを誘惑し、トレインは少年との友情を深め、ヘクターとスタンプスは初めて人としての自由を感じるのだった。

★せめて子供たちだけは守りたいーある兵士の願い。

村でのひと時の休息は、思わぬ来客の到来で終わりを告げる。ベッピが率いるパルチザンたちが、食料を求めて山から 降りてきたのだ。国内のファシズム体制に抵抗し、ナチスと戦う彼らは、果たして味方なのか?彼らが捕虜にしていた1人のナチスの兵士をめぐり、小競り合いが起きるが、尋問が終わればアメリカに引き渡すというベッピの言葉で、ひとまず彼らは休戦状態になる。

その時、捕虜のドイツ兵が、不可思議な行動に出る。元気な姿の少年を見て涙ながらに喜び、彼を抱き寄せると何事か囁いたのだ。その光景が心に引っかかるヘクターは、少年との対話を試みる。トレインに促されて、少年は初めて自分のことをポツリポツリと語り始める。名前は、アンジェロ、セントアンナからやって来た。教会でドイツ人と会い「全速力で逃げろ」と言われた。彼は友達だが、もう1人の男が怖いーー。

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実は、セントアンナでは、ナチスによる民間人の大虐殺が起きていた。アンジェロは、その汚れなき瞳で、いったい何を見てしまったのかーーー?

誰か裏切り者がいたのか?村に押し寄せるナチスの大軍。つい昨夜、酒を酌み交わしダンスを踊った人々に、容赦なく降り注ぐ銃弾の嵐。肩を撃ち抜かれたアンジェロを抱えて、遂に力尽きるトレイン。その時、ひとつの奇跡が起きようとしていたーー。

トビウオさまが、逝った

33回の世界記録を更新し続けた。

種目 は全て自由形と思われるのですが、どの距離の競技に何回世界記録を塗り替えたのかは、知らないのです。33回も世界記録を更新したことはラジオ放送で知った。

日本オリンピック委員会(JOC)や日本水泳連盟の会長を長く務め、水泳のみならず広くスポーツの振興が若者を立派に育てていくのだと、強い信念をもって役職をこなした。その古橋広之進さんが、世界水泳選手権が行われているローマで亡くなった。80歳だった。世界選手権に合わせて開かれていた国際水泳連盟総会において副会長に再任されていたばかりだったという。日本水泳連盟の現役名誉会長だった。

1828年、静岡県浜名郡雄踏町(現・浜名市)に生まれた。

頭角を現したのは、1945年日大に入って、終戦を迎えてからだ。軍需工場で左の手の中指の第一関節から先をなくした。大変なハンディだった。 

(競技の記録については、3日の朝日新聞の記事から抜粋した)

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写真①

写真①は、日本が不参加だったロンドン五輪が開催された1948年8月6日、東京・神宮プールでの全日本選手権で1500メートル自由形で18分37秒0の世界記録を作った時のものだ。当然、400メートル、1500メートル自由形はロンドン五輪の金メダルよりはるかに超える記録だった。

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写真②

写真②は、1949年8月17日、ロサンゼルで行われた全米水泳選手権、1500メートル決勝で優勝。2位の橋爪四郎さんと握手しているところです。前日、1500メートル自由形で世界新を更新した。米国のマスコミは、「フジヤマのトビウオ」と呼んだ。この米国での称賛は、戦後混乱期の不安に包まれていた日本の国民に強く勇気付けた。

Oh !! He is a like  flying fish ,in fujiyama !!とでも言ったのでしょうか。浅学の私にはこの程度の和文英訳です、皆さんの添削を求めます。全米水泳選手権から帰国、神宮プールでの凱旋水泳大会では、会場は超満員で、会場に入りきれない人々が神宮の森に溢れたそうです。

このように世界新記録を33回も更新したのは凄い。学校を卒業して民間会社に勤務したものの、退社して日大の教員、教授を経て日本水泳連盟の仕事につく。立派な選手だった人が、立派なコーチになれるとは限らないし、日本水泳連盟のような組織で、その役務を立派にこなせる能力を併せて持ち合わせている人の存在は、稀有なのだ。

2016年の東京オリンピック招致には、活発にロビー活動をしていた。何を考えてオリンピックを招致しようとしているのか怪しい郎党、金の走狗、出しゃばりな政治家の中で、真にスポーツを愛して止まなく、スポーツのもつ根源的意味の追求、人間の尊厳の表現としてのスポーツがいかに人類に必要なのかを、一番理解されていたのだろう。

古橋広之進さんは、水泳にとどまることなく、スポーツ全般に広い見識をもっておられたので、日本オリンピック委員会の会長も務められた。競技者としての輝かしい記録は、誰もが目を瞠るものだったが、競技から現役を退いてからの彼の功績は、もっと輝かしい。学閥を嫌い選手養成に能力があると認めたコーチを日本代表チームに抜擢した。シーズンオフには地方を回り、要望を聞いて、風通しの良い組織運営にいかした。

死に際が、また凄かった。

今開催中の世界水泳選手権の連日の暑さにもかかわらず、応援席にいた。今大会にかかわらず、どの大会においてもプールサイドに陣取って、選手を見た。陽の当たるところでは40度を超えていた。屋外プールでの競技だったので、ご老体には余りにも厳し過ぎたのだろう。最後は、午後の決勝を見るようにしていたそうです。亡くなる前夜は、水泳連盟の役員達と一緒に食事をして、ホテルの部屋に戻った。翌朝、予定にしていた競技を見に行くためにロビーで待っていた人たちが、部屋から出てこられないのを心配して、ホテルの係りの者に部屋を覗いてもらったところ、ベッドで亡くなっていたというではないか。

教育者でもあった。若い競技者に暖かい視線を投げ続けた。岡野俊一郎さんが、何故、そんなに早く泳げるようになったのですかと尋ねたら、魚のようになれるように努力することなんです、と答えていたようです。このような発言は、若いスイマーにも常に、言い続けていたようです。。

80歳のご老人が、死の淵の淵まで、世界の覇者を競うプールサイドにいたなんて、この事態を私には尊敬とか、偉いとか、私の持ち合わせている言語では、言い表せない。こんな死に方をする人なんだから、時間の過ごし方が、一徹で、熱情的で、真摯で、研究熱心だったのだろう。深い愛情をもってスイマーに、アスリートに接していた。もう、これは人類愛の極(きわ)みだ。

我が家人は、遺族の方々や関係者の悲しみの気持ちを斟酌なく、格好いいねえ、と言っていた。失礼を省みず私もそう思う、この御仁は実に格好よかった。

往生際の神々しい死に方は、私の脳裏を刻んだ。

 

 

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朝日・朝刊

天声人語

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ふんどしの上に水泳パンツを重ねて世界記録を連発した人である。古橋広之進さんは「水着争い」に冷ややかだった。客死の地となったローマの世界選手権を境に、高速水着に歯止めがかかるかもしれない。トビウオ80歳の遺言にも思える。

食べるのが精いっぱいの戦後、日大水泳部の主食はスイトン、マメカス、トウモロコシで。コメは1升を30人分のおかゆにした。交代で農家を回り、買い出したイモの半分を闇市でさばいてやりくりしたという。

戦中、防火用水に使われたプールの水は濁り、藻がわいていた。敗戦で打ちひしがれ、餓える国民はスポーツどころではない。だからこそ皆、古橋さんの快挙に歓喜し、勇気づけられた。

1949(昭和24年)年に招かれた全米選手権。占領軍を率いるマッカーサー元帥は「徹底的にやっつけろ。それがアメリカへの礼儀だ」と励ました。圧巻は初日の1500メートル自由形予選だった。A組で僚友の橋爪四郎さんが世界新を出す。30分後、B組の古橋さんはそれを17秒近くを縮めてみせた。

「日本のプールは短い」「時計がのろい」といった陰口は消え、反日感情が尾を引くロサンゼルスの空気は一変した。当人は「フェアな一面に接し、私たちも彼らに対する認識を大いに改めた」と回顧している。

同じ年、日本は湯川秀樹博士のノーベル賞にもわいた。スポーツで科学で、再び世界と競える喜び、分かり合う幸せ。国際社会復帰への自信は、経済大国へと引き継がれる。裸一貫での再出発にふさわしい、時代が欲したヒーローだった。

2009年8月2日日曜日

賃貸住宅の更新料は無効?

賃貸住宅の更新料の支払いを義務付けた特約は、消費者契約法に違反して、無効だという判決が、090723に京都地裁で下されたことを新聞(090724の日経)報道で知った。この新聞記事を材に使って文章を綴っている。

我々不動産業界で働く者にとって、やはりこの報道はよく理解しておかなくてはと思った。今回は無効との判断だったが、以前には有効との判決が出ていることを知っていたので、どうしても関心を抱かざるを得ない。地裁によって、判断が異なるようでは困る。別件の同種訴訟では高裁まで審理を進めていると聞く。早く司法における最終ジャッジを望む。

私の周辺でも、慣行として一時金としての収入に見込んでいる家主が多い。不動産業者の方も、更新料を受け取ることを前提に業務しているようです。不動産屋は、更新料の一部から契約更新手続きの事務手数料等を頂くことになっているようだ。

消費者契約法は、消費者と事業者間の契約に関しての取り決めなので、消費者間、事業者間同士では、この法律に影響受けることはないはずなのです。ならば、物件ごとに、この法律に関わるのか関わらないのかの明示も必要になるだろう。

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以下は新聞記事のまま。

賃貸住宅「更新料」は無効

京都地裁の初の判断=「賃料の一部といえず」

京都市のマンション入居者が貸主側に約11万円の返還を求めた訴訟の判決で、京都地裁は23日「入居者の利益を一方的に害する特約で無効」と判断、全額返還を命じた。特約そのものを消費者契約法上無効とする判断は初めて。「入居後2年で賃料2か月分」などの更新料特約は、首都圏などで慣行化し対象物件は全国で100万件以上とされる。貸主側が賃料の補充や修繕費の一部に充てているケースも多い。同種訴訟では昨年1月の京都地裁判決が原告敗訴を言い渡しおり(大阪高裁で係争中)、今後の司法判断の行方が不動産業界の動きに影響を与えそうだ。

辻本利雄裁判長は判決理由で「更新料は更新後に実際にマンションを使用した期間の長さにかかわらず支払わなければならず、使用期間の対価である賃料の一部といえない」と指摘し、更新料の必要性に合理的根拠がないと判断。

さらに「入居者が契約書で特約の存在を知っていても、その趣旨を明確に説明し、合意を得ない限り、利益を一方的に害することになる」と指摘。特約そのものが無効だと結論付けた。

貸主側は訴訟で「更新料は、貸す側が更新を拒絶する権利を放棄する対価や家賃の補充として合理性があり、特約は有効と主張していた。

国土交通省が2007年に実施した調査によると、更新料を徴収している業者は神奈川、千葉、東京、埼玉で90~60%。今回訴訟の舞台となった京都では55%。大阪、兵庫ではゼロなど地域差が大きい。

 

★消費者契約法を、六法全書よりその第一章総則、第1条の「目的」をここに書き出してみた。

この法律は、消費者と事業者との間の情報の質及び量並びに、交渉力の格差にかんがみ、事業者の一定の行為により、消費者が誤認し、又は困惑した場合について、契約の申し込み、又はその承諾の意思表示を取り消すことができることとするとともに、事業者の損害賠償の責任を免除する条項その他の消費者の利益を不当に害することとなる条項の全部、又は一部を無効とすることにより、消費者の利益の擁護を図り、もって国民生活の安定向上と国民経済の健全な発展に寄与することを目的とする。ここまで第1条全文。

2001年4月に施行された。

消費者の利益を不当に侵害する契約を無効とし、あらゆる契約に適用される。大学などの入学前納金や賃貸住宅の敷金などの返還請求訴訟でも適用され、返還を命じる判決が相次いでいる

2009年8月1日土曜日

佐藤友哉(ゆうや)さん新作「デンデラ」

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私は毎日、朝夕と配達される新聞を楽しみにしている。

政治・経済・社会の動きの報道と、家庭や文化欄、どの紙面にも目は通すけれど、その記事の中には、額に苦渋の油が浮かんでくるもの、眉間に皺を寄せて悩むもの、冷や汗がバケツ一杯もの、怒りで血管破裂寸前で読む記事もあれば、心が洗われるような、オハヨウ、爽やかさんってな気分で読める記事もある。かって投書欄は読まなかったのに、この頃は真剣に読むようになった。家人の影響かもしれません。趣向を凝らした企画モノも、私には嬉しいモノばかりだ。

そんな新聞の構成のなかで、秘かな楽しみにしているのが書評なのです。この3年間新刊の本を買ったことは無いのですが、新しく発刊される本の広告だけは、どんな時にも、どこでも、どうしても時間を割(さ)いて、読んでしまう習性になっているようだ。新聞、雑誌から、本屋さんでも、街頭の看板でも。それにしても、新刊本の価額が高いのは、イカンです。ズバリ、高過ぎる。誇り高い日本の文化レベル向上のためには、もう少し安くないと、イカンですよ。

でも、新聞を読んでいる時こそ、書評を読むのには一番ふさわしい時間帯なのです。新聞を読むのは、大抵、朝食の前か朝食をとりながらか、朝風呂に入りながらなので、一日の中でも比較的心穏やかな時間帯なのです。紹介される本ごとに枠組みされていて、その枠の中に、私好みのものを直感で、興味が湧きそうなタイトルのものを、まずそいつから喰らいつく。そして瞬時に目についた文字で、全体のイメージを膨らませる。読み出すと、他の行から文字が飛び込んできて、もう少し自分流に想像を拡げる。そして、読み進めるのです。限られた字数の文章から、自分なりに本全体をイメージしてみるのです。これが楽しいのです。

評者は、作者の本を書こうとした作意と狙い、苦心と工夫、技巧そして物語の展開を、主観をまじえて上手に著してくれる。

そして、今回(20090722)の朝日新聞の読書欄での書評のことだ。

佐藤友哉さんの新作「デンデラ」は、小山内伸さんによる書評だけで充分読者を楽しませてくれるものだった。深沢七郎の「楢山節考」の姥(うば)を捨てた場所から一山なのか一谷なのかを越えた所に捨てられた老人たちの共同体としての世界があって、そこで繰り広げられる騒動を描いた。面白そうなのです。唐十郎氏やつかこうへい氏がこの原作から脚本をおこして芝居を演出しようものなら、きっとこの本のように思いつくのだろうが。それを小説に仕上げたのは、読本としてはいい企画だなあ、と感心した。今は、可処分資金が枯渇していて本を買えないが、この書評で大いに楽しんでおきたい。

そんなことで、この書評だけで一つの読み物として仕上がっているように思ったので、ここに転載させていただいた。

後は、本を買ってのお楽しみ、というところだろうが。

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老女50人のサバイバル

佐藤友哉(ゆうや)さん新作、「デンデラ」

小山内伸

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「姥捨て」された老女たちが」共同体をなしてしぶとく生き残るーー。佐藤友哉さんが、深沢七郎の「楢山節考」の後日談ともいえる設定の長編小説「デンデラ」(新潮社)を発表した。過酷な環境におかれた人々の絶望的な闘いを描きながら、疾走感がほとばしる。「快作」だ。

「村」には70歳を迎えた老人は「お山」に参る因習がある。山に入った主人公の斉藤カユは極楽浄土に赴くことを願っていた。だが、「お山」の反対側では、100歳の三ツ屋メイを頭とする老女49人が共同体「デンデラ」を形成して生き延びており、カユは図らずも救出され、そこで生活することになる。

佐藤さんは「学生時代に映画『楢山節考』を見た時、実人生とは関係ない話なので、しんき臭くつまらないと感じた。でも、姥捨て伝説をテーマに、エンターティンメントから純文学の要素までひっくるめた物語にしたら、すごい化学反応が起きるのでは、と構想したんです」と語る。

「デンデラ」では食糧不足に加え、熊の襲撃、疫病の流行が起こり、老女たちはバタバタと死んでゆく。それでも老女たちは果敢に生き残りに賭ける。

「サバイバルものを書いてみたかった。老女なので生活力も体力も乏しいが、そこで苦しい、さもしいだけを描いたら、つまらない映画と同じになる。読者に喜んでもらうには、破れかぶれかもしれないが異常にテンションの高い生き方を描いてみたんです」

老女たちの間では、自分たちを捨てた村に報復しようとする襲撃派と、生活の安定を望む穏健派とが対立している。

「『楢山節考』では、村から捨てられた老女がなぜ腹を立てないのかわからない。怒るのが自然の感情であって、人数がそろったら冗談でも襲撃を考える人たちがいておかしくない。村を襲うのは体制への異議申し立てです」

佐藤さんは就職氷河期に北海道の高校を卒業、これまでも格差社会で疎外された若者を描いてきた。

「でも、現代の社会を投影しようというつもりはまったくなかったんです。今の日本の若者は怒り方がわからないのでは。少なくとも僕はわかるというふうには書けない」

主人公カユは両派の間で優柔不断な立場を取りながら、結末まで生き残り、一矢を報いる捨て身の戦法に出る。

「カユは成長する。70歳からの青春小説でもある」