この時季になると、あっちこっちで、盆踊り大会が行われている。衆院選挙が近づいてきたので、立候補しているハチマキ姿の先生?たちは、盆踊りのハシゴをしては、なにとぞ1票をと、頭を下げ握手をしまくっている。そんな光景が、この場には似つかわしくなく、ウンザリだ。ここは、先祖の霊をこの世にお招きし、しばしの間、かっての友人や親族らと、また孫や子供の成長を確かめてもらったり、今生の我々と楽しく過ごしてもらうための聖なる催事の場なのですぞ。各地で行われている花火大会だって、先祖の供養のためだ。京都の大文字焼きもその類だ。
私が住んでいる権太坂では、毎年隣の境木地区と合同で、小学校の校庭を借りて行っている。役員さんたちが懸命になって、準備から片づけまで汗一升、脱帽ものです。古くからの役員さんには商店街の店主が多くて、かっては、酒もキャベツもパンツも商店街で買っていたから、まあ~いいかっ、と思っていたのですが、今は、商店街を利用することが少なくなったこと、役員さんの仕事の量を思うと、気が重くなって、正直スミマセンと思う。今年も、私は仕事だったのですが、家人は、長女夫婦に孫娘、次女夫婦に孫息子を伴って、楽しい時間を過ごさせてもらって満足していた。夕食の用意されてないジジには、焼ソバが土産だった。腹が減っていたから、旨かった。役員さんには感謝だ。
田舎から出てきて、この地に暮らして30年以上経つのですが、ここで行われる盆踊りには、未だに馴染めない。オバQ音頭も、アラレちゃん音頭も子供たちにとってはいいのでしょうが、大人が踊るのは「東京音頭」しかない。私にとって東京音頭は、どうにもしっくりとはいかないのです。新しくできた盆踊り用の曲も使われているようですが。田舎に住んでいた時から、東京は苦手だった。野球だって、読売ジャイアンツが一番嫌いで、次にヤクルト(国鉄スワローズ)だ。ロッテ(大毎オリオンズ)、横浜ベイスターズ(大洋ホエールズ)も大嫌いだった。そりゃそうでしょう、東京の学校に入るまでは、生まれ育った故郷は京都の外れの外れ、滋賀との国境の村里じゃ。阪神ファンに囲まれて育った。当然、首都圏を斜視に構えた。盆踊りはずうっと「江州(ごうしゅ)音頭」だったのです。
私の郷里は,行政的には京都府綴喜郡宇治田原町南切林で、琵琶湖から流れ出す瀬田川に田原川が合流して、宇治川と名を変えることになるのですが、この辺りの、かっては村合谷間の寒村だったのです。河岸段丘のわずかな平野部と、山の麓(ふもと)に、へばりついて生活していた。生家は、お米と宇治茶の生産農家です。今は小さなスーパーマーケットもできて、村から町へと変貌しつつあります。
誰もがそれぞれに、生まれて育った郷里の自分用の「盆踊り」をもっている。機会があれば、皆に聞いて回ろうと思っている。あなたの田舎では、どんな音頭で、盆踊りをしたの?盆踊りで唄われていた唄ごとに、全国地図を色で塗り分ける。私の生家は、住所は京都府でも一番滋賀県に近い所だったので、江州音頭だったのだろうと決め込んでいたのですが、京都市北区で育った家人に、小さい頃君はどんな音頭で、盆踊りをしていたかと聞いみたら、これが江州音頭だと言うではないか。京都市内でも盆踊りには、広く唄われていたようです。「炭坑節」は、全国的に知られた横綱格だ。「河内音頭」も有名だ。「花笠音頭」は盆踊りでも踊るのかな?。沖縄や奄美大島では、島唄風の音頭なのだろうなあ。
私の村(田原村)では、お盆(8月13,14,15日)になると、公民館の広場に櫓(やぐら)が組まれて、その櫓の上には唄い手が3人程と、太鼓や鐘を叩く人が2、3人、全員が輪になって外を向くのです。
♪、そりゃ~、♭、よいとよいや、まっかどっこいさのせーー、♯。
これを、一人の唄い手が唄い終えると、合いの手のようにして、唄い手たちも周りで踊っている人たちも一斉に唱和するのです。意味は理解していなかった。そして、次の唄い手にバトンタッチされるのです。唄い手ごとにオリジナルの物語を持っていた。過去の偉人とか、世事を面白おかしくストーリー立てにして唄うことも多かったようです。これを繰り返して、延々2~3時間ぶっ通しで続くのです。
毎年、盆踊りシーズンになると、この「江州音頭」が思い出され、いったいあの時に唄われていた文句(歌詞)は、合いの手も含めてどんなことを意味していたのだろうか。知る機会も調べる努力もしないまま、今まで遣り過ごしてきた。
今年こそ、この「江州音頭」を調べてみることにした。早速ネットで、江州音頭の普及会(077-528-3741)が滋賀県庁内にあること知って電話した。担当の人がいたのです。mizogutiさんでした。電話してきたことを、非常に喜んでくれたのが印象的でした。担当者の方から貰った資料の中から抜粋させていただいて、紹介することにしよう。
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滋賀県江州音頭普及会が発行している「滋賀の郷土芸能、江州音頭」から、「江州音頭とは」、と「江州音頭の発祥(祭文)」をここに引用させていただいた。
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★それでは、「江州音頭とは」ーーー。江州音頭は商い音頭ともいわれ、近江商人の影響も受けているようです。「さてはこの場の皆様へーー」から唄い始め、皆様に訴えようとしています。また、掛け声も「そりゃよいとよいや、まっかどっこいさのせー」と言いますが、宵(夜)からよいや真っ赤(朝になるまで)どっこいせーのせと、夜を通して徹夜で働いた姿を踊り子の掛け声にしているあたりも商い音頭と言われている由縁であると思われる。
『江州音頭』には屋台音頭(櫓音頭とも言う)と座敷音頭があります。
江州音頭は櫓やステージなどで口演(唄う)する踊り音頭(盆踊り唄)であり、リズム感があって太鼓や鉦、三味線など、にぎやかにお囃子が入ります。最近ではギターやドラムといった洋楽器とのコラボレーションも楽しまれている。座敷音頭は主に座敷で浪曲や浪花節調に、じっくりとした語りで物語を口演します。口演内容は、五穀豊穣の祈祷祈願や、喜怒哀楽を表現したり人の心の訴えを語り合う庶民の歴史があるように思われます。
★次に、『江州音頭の発祥 (祭文)』とは、---。滋賀県は昔、近江の国、また江州と呼ばれていました。この江州の名をとって江州音頭と名付けられました。江州音頭が大成したのは明治の初めです。しかし、その源流を訪ねれば、遠く奈良、平安の時代に遡ります。ところで、仏教のお経の節を「声明」と呼んでいますが、それは浪曲などあらゆる日本音楽の源と言われています。その流れが、「祭文」、「歌祭文」、「念仏踊り」、「歌念仏」、そして「音頭」へと発展してきました。
祭文とは、もともと山伏や修験者が神社・仏閣の祭りの中で神仏に告げる文のことです。それが室町から江戸時代にかけて祭文語りとして芸人達の間に広がるようになりました。祭文語りは村々を訪れ、伝承物語や他国の事情を語りました。娯楽も少なくまた情報にも乏しかった時代に、祭文語りは村々でもてはやされたのです。
幕末の頃、祭文語りの名人、桜川雛山に弟子入りし本格的に祭文語りの修行した滋賀県八日市の「西沢寅吉」は、念仏踊り、歌念仏も採り入れ「八日市祭文音頭」を完成させました。明治のはじめ豊郷の千樹寺観音堂の再建の折、西沢寅吉を招き、当日は彼の音頭に乗って村人たちも踊り明かしたと言われています。この音頭は豊郷・八日市を中心に近江路一帯に広がり、美濃や伊勢などにも評判が伝わっていきました。そして滋賀県の郷土芸能、江州音頭として定着したのです。
西沢寅吉は歌寅という通り名で、やがて、初代「桜川大龍」と名乗るようになりました。江州音頭は、桜川大龍とその良き協力者真鍮鋳物細工師の奥村久左衛門、すなわち、初代真鍮家好文によって発展し、お盆の定例行事として全国に知られるようになったのです。
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江州音頭の一つより
「花の生涯」
口演・桜川虎龍
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えー皆様たのみます しばらくはヨイヤセの掛声を
さてはこの場の皆様へ 早速ながらで有るけれど
伺い上げます演題は
彦根の空に聳え立つ 天守閣こそ誰あろう
御高三十と五萬石 時は平成に変われども
後の世までも名を残す 幕末日本の先覚者
井伊直弼の物語り これじゃからとて皆様よ
事や細かにこんな難声じゃ 程良くまいらね共
お粗末ながらも口演奉るわいな
そもそもえ初段の筆初め途中最中でわからねど
雲の流れと人の世は
どうにも成らぬと知りながら 徳川三百歴史に賭ける
花の生涯名も高い 人はそれぞれにお互いに
持って生まれた星がある
まさか大老に成ろうとは 夢にも知らず産声上げた
十四男の直弼が 彦根城主に成るなんて
誰にも解らず我が身も知れず 埋木舎で気侭な暮らし
石州流の茶を学び 山鹿流儀の兵法や
新心流の居合術 道楽修行で日を送る
待てば海路の日和有り 嘉永三年十月に
兄直亮の跡目を継いで 彦根城主に治まった
とんとん拍子に花が咲き 晴れて安政五年目に
徳川幕府の大老職
その身を任せる事と成る 外交内政の二文字に
賭けるこの身は命は一つ 長野主膳と力を合わせ
武士の意気地を天下に示す 勤皇佐幕の絡み合い
将軍様の跡取り騒ぎ その上異国の黒舟騒ぎ
天下分け目の江戸の町
開国論に持ち込んだ 討幕論に火が付いた
一方立てれば一方が立たず 勇猛決断此処にあり
世に言う安政大獄の 火蓋は切って落とされた
国の大事を救わんと
五尺の身体にムチを打ち 名代の学者や政治家を
捕らえた事件が刺激して 水戸の浪士や勤皇志士
奮い立たせる事と成る 喩えこの身は散ろうとも
散らしちゃ成らない武士の意地 勤皇佐幕と言うけれど
国を想うは皆同じ 万延元年三月の
花のお江戸に雪が降る
桜田門の堀端で 「下に下に」の声がする
見れば大名行列で 尾張公のその後は
赤い合羽の供を連れ 井伊直弼の駕籠が行く
折から飛び出す一団は 白鉢巻に襷がけ
水戸の浪士が斬り込んだ
上を下への大騒ぎ 天命つきて直弼は
桜田門の花と散る 舞うは吹雪か牡丹の舞か
日本夜明けの鐘が鳴る 咲かぬ蕾に花が咲き
波乱万丈の人生を 侍ニッポン武士道に
賭けた男の物語り ならばつなごと想えども
あんまりお長くなりますので
ここらで変り合うてつとめます
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注。手と足の動きについては、後日解説文を挿入します。それまでは、踊りたい人は自分流に、勝手に踊ってみてくださいナあ。スマン。
☆ 右足を一歩前に。左を向く。
「右の品物如何ですか?」
★右手肩の高さ、左手をかざす。
☆左足を前に二歩目。右を向いて
「左の品物どうですか?」
★左手肩の高さ、右手をかざす。
☆ 右足を少し後ろに引く。体は右向き顔は後ろ向いて
「後ろにも品物あります」
★左手をかざして、右手は後ろ斜め下にかざす。
☆左足を引いて右足に揃えて右足を踏みかえる。進行方向を向く。
「荷車で出発準備」
★両手を一旦後ろから前に出す。
☆左、右と進む。進行方向に二歩進む。
「荷車でお届けにあがります」
★両手を自然に戻します。
☆左足を右足に揃える。左向きに止まって、手を一度打つ。
「お買い上げありがとう、儲けさせていただきおおきに!」
★足が揃ったところで左を向いて手をポンとたたきます。
☆は手の動き、★は足の動きです。
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090902
朝日・朝刊に富山市の旧八尾町の盆踊りの紹介の記事が出ていた。「越中おわら節」で踊る「おわら風の盆」のことだ。昨日は、関東の東部に雨と風を伴った小規模な台風が、過ぎ去った。夏が終わろうとして、本格的な台風のシーズンに入ろうとしている。この踊りは、こんな時季に暴風からの無事や豊作を願っての祭り(?)だそうだ。「おわら」の語源を調べてみたのですが、昔から諸説あって「おわら」は大笑いとか、大藁とからしい。この踊りは、盆踊りでも、お祭りでもない、と言う人も多い。確定的な語源ははっきりしていないようだ。これだ、というお説をお持ちの方は、随時お知らせくださいな。広く世間の判断を伺いましょ。
以下は新聞記事から
坂の多い町並みは、夕暮れとともにぼんぼりに灯がともされた。胡弓と三味線の音色が風に揺れるなか、顔を隠すように編み笠かぶった踊り手たちが、列を作って静かに練り歩いた。しなやかな手の動きが哀愁を誘う踊りは、明け方まで続く。3日まで。
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