2009年1月30日金曜日

朝青龍が優勝して泣いた。でも品格ゼロだって?

大相撲初場所は25日、東京国技館で千秋楽が行われた。3場所連続休場から復帰した西横綱の朝青龍(28)が14勝0敗、東横綱の白鵬が13勝1敗で戦った本割で、朝青龍が負けた。両横綱は8ヶ月前、取り組み後、不要なにらみ合いで、協会から注意を受けた。遺恨の一番だった。本割の結果、両横綱は、14勝1敗で同じ星に並んで、優勝を決める決定戦に持ち込まれた。館内は否応なしに盛り上がった。しかし、か、さすが、か、でも、か、やっぱり、か決定戦では朝青龍が、両差しから一気に攻めて勝った。土俵下で直後に行われた優勝インタービューでは「朝青龍、また帰ってきました。優勝したのでまだまだ思い切り頑張りたい」と答えて、館内を沸かした。

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土俵から下りて、両手を高らかに挙げて、観衆に喜びをアピールした。全ての観衆に応えるべく、体をぐるっと1回転させた。どうじゃ文句あるか、俺が優勝したのだ、と言わんばかりに。この時、私はアレっと思ったのです。何かが可笑しいぞ、と思ったのは、今までに優勝したシーンで両手を挙げて、ガッツポーズをした関取がいなかったからだ。見慣れない光景だった。これ、ちょっとまずいことになるかも、と予感した。

案の定、翌日の横綱審議委員会で、朝青龍に対して、取り組みには目をはるものがあったとして各委員が復活を讃えたが、でも、ガッツポーズには苦言が寄せられた。あの「寅さん」や「浜ちゃん」を世に出し、その主人公を国民的アイドルまでにした、これまた国民的映画監督の山田洋次委員さえもが、委員会には欠席したものの、ガッツポーズは品格においてはゼロだった、と述べていたそうだ。「サクラ、山田監督も以外に厳しいことを言うもんだね。品格、そんなもん、横綱でなくても誰にだって必要だよ。寅にだって、寅流の立派な品格ってモンがあるだろう、なあサクラ」

場所前、引退か否かと話題になったが、まさかの優勝決定戦だった。私にとっても、不思議な15日間だった。取り組みそのものは、ハラハラさせられながら、私を痺(しび)れさせてくれた。面白かった、というのが正直な実感だ。

私には、ガッツポーズぐらい認められていいのではないかと思うが、諸氏は如何(いかが)お考えになりますか。両手を挙げてのガッツポーズは、日本人には馴染みの万歳(バンザイ)でもあるのですから。

柔道でもレスリングでも、勝者は畳の上を、リングの上をピョンピョン飛び上がって喜びます。その姿は美しい。女性だって、監督に肩車をされることだってあります。その師弟の姿は美しく品格がある。ハンマー投げの室伏選手が投擲後、ウオーと吼えるのも、私には美しい品格に値すると思うのですが。

相撲は国技だから、横綱だから、ガッツポーズは相撲道には相応(ふさわ)しくないのでしょうか。下位の相撲取りなら、許されるのですか。

優勝のインタービューの前、満面破顔の小さな三角の目から、涙が光って零れた。あの朝青龍が泣いたのを、私は見逃さなかった。私は、ドキットした。

表彰式を終えて支度部屋に戻ると、待っていたのは元床山「床寿(とこじゅ)」こと日向端隆寿(ひなはたたかじゅ)(65)さんだった。二人はがっちりと抱き合って、周囲にはばかることなく号泣した、とラジオのニュースで聞いた。車を運転中の私も、流れる涙を何度もハンケチで拭いた。今度の優勝には、朝青龍には格別の感慨が沸いたのは当然だろう、またがっぷり巨体を抱きしめた日向さんにも、ただならぬ深い思い入れがあったのだろう。

こんなに泣く朝青龍を初めて知らされた。

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翌日の新聞には、優勝パレードの朝青龍がオープンカーに乗っている写真が載っていた。朝青龍の横に日向さんがくっついて乗っていた。狭っ苦しいそうだ。この床寿=日向さんは、現役時代、床山でも最高位の役割を担っていて、昨年定年退職していた。日向さんには、どの力士の銀杏も結えることができる資格が与えられていたようだ。昨年11月の九州場所を前に、朝青龍から「絶対優勝してオープンカーに乗せるからね」と声を掛けられた。だが、全休。髪を結うことなく定年を迎えた。そして今場所直前に食事に誘われた際、「千秋楽、オープンカーで待っているよ」と言われた。そのあたりから、朝青龍は酒を控えて、相撲に精進していた。日向さんは、取り組みが終わる度に「おめでとう」の一言の電話を掛け続けて喜びを分かち合った。

ここまでの記述は、日向さんと朝青龍の熱い交流のこと。私も仲間に入れてよ、と言いたいところだ。このパレードの様子をテレビで観ていて、また嫌な予感がしたのです。それは、オープンカーに二人は笑顔で乗り込んでいて、そこで朝青龍が手にして振った旗は、モンゴルの国旗だったことです。日本相撲協会が主催する相撲・場所だ。いくら自分がモンゴル出身だからといって、祝賀パレードにモンゴル国旗はいただけない。朝青龍はやはり日本の文化を理解していない。モンゴル国旗を掲げたいならば、主催国の日本の国旗のことも考慮に入れなくてはいかんのではないのか。このことについては、今のところ、世間も協会も物議を醸してはいない。

朝青龍ご本人に、そんな配慮をすることが無理ならば、朝潮・元大関=長岡末弘さん、高砂親方さん、しっかり管理監督、指導してよ。子飼いの力士が、暗雲を払いのけて頑張ったのだ。シコ名の通り、たなびく青雲と立ち昇る龍を見せ付けてくれたのだ。高砂親方さん、朝青龍が優勝パレードで日章旗とモンゴルの国旗を両方掲げたならば、日本の国民はどれほど喜んだことだろう。そんな気配りをやって見せてくださいな。悪評がいつも付きまとう朝青龍を、親方こそ、真剣に考えるべきですよ。それができないようなら、ますます親方のメッキが剥(は)がれますよ。

追記

朝青龍のガッツポーズについて、横綱審議会では問題視する意見が出たのを受けて、武蔵川理事長は、29日品格に欠ける行動を取ったとして横綱朝青龍に対し、師匠の高砂親方を通じて注意を与えた。同日開催された協会の理事会では横綱の品格問題は出なかった、と聞くと武蔵川理事長の理事長としての「注意」なのか、個人的に思いついての「注意」なのだろうか。はっきりせい、と私は真実を求める。

高砂親方のコメントも、私ががっかりするほどしっかりしていない。「ガッツポーズはテレビで見たが、深く考えていなかった。朝青龍には自覚を持たせないといけないし、私も師匠として自覚しないといけない」。このようなコメントでは、果たして高砂親方自身がどれだけ「自覚」したのか、定かではない。本当は、品格ということについてもよく理解はしていないし、この注意にも納得していなのではないか。きっと不満なのだと思う。腹の底ではあの程度のガッツポーズなら、いいんじゃないの、と考えているのではないか。それなら、それで、理事長に自分の意見を述べるべきだ。

私は、個人的にはあの程度のガッツポーズは決して横綱の品格を損なったとはどうしても思えない。私の身中には、昔から判官贔屓(ほうがんびいき、はんがんびいき)の虫が棲んでいるのです。今回この贔屓の的は、皆に何かといじめられてはいるものの、けっして弱くはなかった。世の大半の期待に反して優勝してしまった。贔屓になどする必要はなかったのでした。

本来の日本の文化の中心には、自分の感情を律するということ。勝者も敗者も互いへの賛辞をつつましやかに表現し、感情を律するのが本来の姿だ、と主張される御方(おんかた)もいらっしゃることは、私も理解はしています。

朝青龍は、日本でのアレコレなんか、屁のカッパ。場所終了後、即、愛するモンゴルに休養のために帰ったらしい。朝青龍は、ますます意気軒昂、意気天を衝’(つ)く勢いだ。

そんな横綱が、私は好きです。

今後もこの品格について、考えていきたい。

(朝日新聞の26,27,30日の記事を参考にさせていただいた)

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朝日朝刊

天声人語

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存在より不在が気になるのが看板役者というものだろう。不在のツケを倍にして返されては大看板と認めるほかない。初場所に進退をかけた朝青龍が賜杯をさらった。3場所の空白や引退説がうそのような復活だ。

白鳳との優勝決定戦。左から崩して頭をつけ、一気に寄る。最盛期の、運動神経の塊がそこにあった。「朝青龍が帰ってきました」の言葉にうそはない。勝ち名乗りを座布団が直撃したが、構わず両手を突き上げた。

日を追って、ふてぶさしさが戻ってきた。目を三角にとがらせ、締め込みをポンとはたいて気合を入れる。だめ押しの悪癖、感情丸出しの形相が、久々に観衆の心を波立たせた。やんちゃな存在感は、安定感がまわしを締めたような白鳳と対をなし、両雄で一双の屏風絵が完成すると改めて思った。

敵役が強いほど物語りは盛り上がる。ところがこの適役、最後には倒されるというお約束や、もろもろの批判まで寄りきり、主役に帰り咲いた。強くて客を呼べて、国技だ品格だと言わねば理想のプロの格闘家である。今場所の収穫がもう一つ。新入幕で勝ち越した山本山だ。目方250キロの自称「どんぶり王子」は、ふくよかな容姿で癒し、ほんわか発言で和ませる。懸賞金の使途を聞かれ「しゃぶしゃぶかな。タレはポン酢派」というのがあった。こんな時代にはうれしい存在だ。早く出世し、あの腹で横綱を受け止めてほしい。勝敗が決した後の朝青龍の挙動、山本山のコメントには、食後酒に通じる楽しみがある。酔えるかどうかは好みの問題だが。

2009年1月21日水曜日

この日米の違いは、何だ!!

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(米メリーランド州エッジウッド)

氷点下の米東部地方を走り抜けた「オバマ列車」は、17日熱狂する市民に迎えられ、首都ワシントンに到着した。次期大統領のオバマ氏は敬愛するリンカーン元大統領の旅を再現した。起点は古都フィラデルフィアの南西に位置するデラウェア州ウィルミントン。特別仕立ての列車はスピードを落として走った。旅の途中で、幾度も列車から下りて、群衆に演説で応えた。そのどの演説の内容も、日本の政治家のものとは随分違うことに、驚かされた。演説では、大統領が民衆と共に政治をしたいと、民衆に応えたいと何度も繰り返す次期大統領。方や日本の首相は、夜な夜な高級ホテルのバーに、色んな人を呼び込んでは何を話しているのだろうか。人気取りを目論で居酒屋へ顔を出しては、チンプンカンプンの応答して、若者たちの失笑をかった。スーパーでは、主婦に首相の金銭感覚を馬鹿にされていた。公の場においても、私を悲しませる言辞は止まない。先日の坂本哲志総務政務官の東京・日比谷公園の「年越し派遣村」についての心無い発言は、なんじゃ。お前さんの心根は、腐っているぞ。他人の悲しみや喜びを理解できない、精神の貧困なこの馬鹿者共が!!

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オバマ列車の新聞記事を読んだ後、ファイルしておいた、下の新聞記事を読み直した。これを対比するに、怒りよりも、情けなくなった。その記事は後の方で読んでください。

ここでは、先ずその演説の内容を、090109前後の朝日新聞の記事から抜粋してここに転載させていただいた。口から発せられるどの言葉にも、優しさや人間の温かさが伝わってくる。希望に溢れた、幸せな気分になれる。この気持ち良さを、彼を支持する人たちは思いっきり味わっていることだろう。私も確信をもって、アメリカの明日を信じたい。

*私たちは一日も休まず仕事をする。来月の交通費を心配する親や、汽笛を聞きながらより良い生活を夢見る子供たちのためにーーー

*今、必要なのは、イデオロギーや偏見からの新たな独立宣言だ。米国の革命は今も続いている。

*一緒にこの国を再生させよう。と叫ぶと人々は、イエス・ウイ・キャン、と繰り返した。

黒人解放の父と言われた、公民権運動指導者のキング牧師が

*私には、夢がある。I have a dream

*この国(アメリカ)は肌の色ではなく人格で評価される国。

の演説をしたリンカーン記念堂のリンカーン像前での就任前演説でも、

*私は、皆さんの声とともに、ここにやってきました。

*変化を求める無数の声を妨げることのできる障害など何もない。

就任前日、秒刻みのスケジュールの合間に、ボランティア イベントに出かけて行って、10代のホームレスの人たち用のシェルターの室内の壁のペンキ塗りの手伝いをした。ミシェル夫人は米兵らへの慰問物資の荷造りをした。バイデン次期副大統領は大工仕事に精を出した。実際の仕事の量はそんなには捗(はかど)らなかったことは当然だろうが、その志(こころざし)が、私の胸を高鳴らせる。ここでは、今日は多くを語りません、明日にとっておきたい、などと語っていた。そこで、就任演説の内容が楽しみだ。

かって、リンカーン元大統領は

*人民の、人民により、人民のための政治。

ケネディの演説は高校の英語の授業で、辞書を片手に感動した。

*国が皆さんのために何をできるのかを問うのではなく、皆さんが国のために何をできるのかを問おう。

アメリカ国民ならずとも全世界の人々が、私もオバマ氏の大統領就任演説を楽しみにしている。

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(ワシントンのリンカーン記念堂前)

 

090109 朝日・朝刊

人の痛みと政治

窓・論説委員室から

《恵村順一郎》

「本当にまじめに働こうとしている人たちが集まっているのか」。坂本哲志総務政務官が、東京・日比谷公園の「年越し派遣村」について語った発言が波紋を広げている。そういえば、麻生首相の次の言葉が浮かんだ。

「たらたら飲んで、食べて、何もしない人の分のカネ(医療費)をなんで私が払うんだ」

いくら健康に気を配っている人でも、病気になることはある。「たらたら飲んで、食べ」たことだけが病気の原因ではない。だからこそ保険料で支える健康保険制度があることを、首相はどこまで肌身で感じているのだろう。

なであんなに多くの人々が派遣村で年を越さざるを得なかったのか、この冬、世界を襲った経済危機のためである。

どんなに働きたくても、いや応なしにクビを切られ、仕事と住まいを失った人たちがいる。個人の努力や真面目さではどうにもならない現実があることを、坂本氏はどれほど理解しているのだろう。

首相にはこんな発言もあった。

「自分が病院を経営しているから言うわけじゃないけれど(医師の確保は)大変ですよ。(医師は)社会的常識がかなり欠落している人が多い」

人手不足で過酷な勤務に耐えながら、日夜働く続ける医師はたくさんいる。医療崩壊を招いた政治の責任を、首相はどう感じているのだろう。

人の痛みや苦しみを受け止める想像力がない政治は、悲しい。

 

090120朝日・朝刊・政治

政態拝見/政治家の魅力・「オバマ流」生かせるか(ダイジェスト)

《星浩(編集委員)》

15日に都内で開かれたシンポジュウム「オバマの米国 世界どう変わるか」(東京新聞主催)での谷内正太郎・前外務事務次官の話だ。谷内氏は大統領選のある光景に注目する。集会でオバマ氏は、米国のイラク戦争を「間違った戦いだ」と非難した。すると、会場の女性が手をあげて「私の息子はイラクで戦死した。間違った戦争で犬死したのですか?」と質問。オバマ氏はすぐに壇上から駆け下りて、その女性を抱きしめ、語りかけた。「息子さんは米国のために命をささげた。私は息子さんを尊敬する」。会場からは大きな拍手がやまなかったという。「自分の気持ちを大衆に伝えるコミュニケーション能力という点で、オバマ氏は抜きん出ている。パニックにならず、冷静に対応する。残念ながら日本ではいまのところ、そういう政治家は見当たらない」というのが、谷内氏の結論だった。

渡辺善美元行革担当相は、官僚の天下りや定額給付金問題を独特の語り口で発信し、自民党を離れた。「けしからん男だ」(金子一義国交相)などと切り捨てずに、堂々と論争をすればよかった。どちらの理屈が国民の理解を得られるのか。競い合う姿が見たかった。麻生首相は「給付金を受取る高額所得者はさもしい」と言ったかと思うと、今度は「給付金を含めて盛大に使って欲しい」と軌道修正した。なのに、率直な説明がない。政治家としての魅力が感じられない理由がある。

2009年1月13日火曜日

1月5日は寒川神社へ初詣

1月5日は、我が社の仕事初めでした。毎年恒例の寒川神社に男性社員全員でお参りしてきた。社員は8時に会社に集まって、三々五々車に分乗して、神社で9時集合した。

暮れに、私は川出さんと長谷部に歩いて行ってみないか、と提案した。二人は、そりゃ面白い企画ですね、いいじゃないですか、と二もなく賛同してくれた。それで、長谷部は私の権太坂の自宅に深夜2時までに来るように、そこからスタートして3時には戸塚の元西友の跡地で川出さんと合流しましょう、ということになった。当日、長谷部は私の自宅まで、自転車でやってきた。南区吉野町からだ。思ったより遠かったです、と息をフウフウしてやってきた。この青年は、私の会社に入社するまでは飲食関係の仕事をしていた。入社して、不動産の仕事が面白くて堪りませんと言い切る。学ばなくてならないことがいっぱいあって、その一つ一つが法律や条例で決められていて、知れば知るほど、好奇心が湧いてくるのです。成長盛りの好青年だ。必ず会社の重要な位置を占めるスタッフに育って欲しいと思っている。

090105 02:00二人は権太坂をスタートした。境木地蔵、東戸塚駅で西口に渡った、横浜新道に沿って、料金所の横を通って、富士橋、戸塚へ。この間、私と長谷部は、これからの道程のことをあれこれ、各自予想を立てた。あのな、自宅から東戸塚までは2キロなんだよ、そこを30分近くかかっているとすると、1時間では4キロしか歩けない。そうなると全行程が30キロとすると、30割る4で7時間半かかることになる。2時にスタートしたから、9時半に着くことになる。長谷部は私の自宅まで自転車で急いで来たものだから、はじめのうちは体はほっかほかだったが、歩いても発熱を吹っ飛ばす寒気に、体は冷えていく一方だった。心なしか、元気がなさそうに見える。それに、東戸塚から戸塚への距離が、二人とも頭の中で考えていたよりも、実際には遠くて、この先のことが思いやられた。長谷部は無口になった。ときどき、ウとかアとか言っている。彼に、不安が襲ってきたのだろうか。新聞配達のバイクが走っている。あの灯りの辺りが戸塚だよ、と言って気晴らしを仕掛けたのだが、その灯りに近づいても、戸塚はもっと先の方だった。がっかり。長谷部の顔がスッキリしない。腹が空いてきた。立場の近くに牛丼屋さんがあるので、そこでメシを食うことにしょう。「ハイ!!」と、長谷部の声だけはいつもの元気印だった。

戸塚の元西友の跡地で川出さんと合流したのは、03:30だった。川出さんと、新年の挨拶をした後、リーダーを川出さんになってもらい、川出、長谷部、私と前後に並んで歩き出した。川出さんの歩くスピードが早いので、「川出さん、このスピードで歩かなくちゃ、いかんのですか」と聞いてみたら、川出さんは今回の徒歩初詣のために、30日に自宅のある下倉田から大船まで歩いて学習した結果、当日歩くスピードを時速4キロに決めていたのです、と我々に宣言した。だからこれから、4キロを1時間で歩くことを守ります。そうしないと予定の9時までには着かないのです、とのことだった。この話を聞いた途端、私と長谷部は、先ほどまでの何の当てもなく無闇に歩いていた不安が雲散して、二人はこれからは川出さんの言う通りに従うしかないと、顔を見合して納得した。ほっとした。さすが、調査の川出さんだ。川出さんは、仕事上でも調査専門なのです。

長後街道を長後に向かって歩いた。矢沢、踊場、白百合、葛の口、中田。04:10、立場の手前で待望の牛丼を食った。調査の川出さんは、用意してきた地図を拡げてこれからの予定を話してくれた。2万分の1の地図だ。1キロ毎にマークが点けられていて、立場からは15~6キロだと思われるので、今までのスピードは時速4キロですから、休憩しながらでも、楽に9時には着きますよ。

戸塚までの間は、長谷部と私の間には重っ苦しい雰囲気があったのですが、川出さんが加わってくれたお陰で、気分は楽になった。ここで、私は又一つ学び取った。二人で顔突き合わして苦しい思いでどうにもならなくなったときにも、新しい人が参加することによって、雰囲気がガラット変えられることが可能だということを。仕事でもかくアリランじゃ。

長後街道を中和田、和泉、泉区役所、上飯田、高鎌橋、ここまでは横浜でした。長後街道を外れて横浜伊勢原線に移動した。ここからは藤沢市の高倉、谷戸、下土棚、上土棚、葛原。いすず自動車の工場前で、05:45、小休止。いつもならこの時間、私は毎朝の犬の散歩を終えたころだ。年末にいすず自動車の工場で働いていた派遣社員が全員契約解除になって、職場を追われることになって労使が大モメにもめていた。藤沢市の市長は契約解除になって、職場とともに寮まで立ち退きを求められた派遣社員に、市の空き部屋を提供すると名乗りを挙げた。国の最高立法府である国会では、その対策に何の手立てもできない無能ぶり。地方自治体のことの重大性の確かな認識と、それに対処しようとした市長に拍手。その話題のいすず自動車工場の前で、自動販売機のホットコーヒー缶を、川出キャップテンは奢(おご)ってくれた。主人に手袋を忘れられた両手を、缶コーヒーで暖めた。

藤沢市の宮越、御所見を過ぎて、06:15用田十字路に着いた。空の暗さは変わらないにしても、なんとなく朝の気配がしてきた。年老いたご夫婦が散歩しているのに出会った。往来を行き交う自動車の数が増えてきた。工事現場に向かうと思われるダンプや建設重機を積んだトラックが走る。今日は、仕事初めの職場が多いはずだ。私も、今年の幸多いことを願いに寒川神社に向かっているのです。トラック野郎の兄(にい)さん方にも、幸多い年でありますように、私からもお祈り申し上げます。この辺りから、長谷部の足が重たくなってきた。二本の足が蟹股になってきた。ロボットのようでもあった。そんな長谷部の後姿を写真に収めた。証拠写真だ。私が、学生時代にサッカーの元監督さんから「ヤマオカ、お前なあ、尻(ケツ)に糞でもはさんでいるのか」と言われた、それと同じ恰好で、歩を進めていた。頑張れ、と後ろから発破をかけた。

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(朝明けの雰囲気。長谷部の足が、右外左外に、蟹さん歩きになってきました)

用田から中原街道(丸子中山茅ヶ崎線)に入る。寒川町の看板が目に入った。長谷部君の表情に幾分明るさが見えた。と思いきや、獺郷(おそごう)の地名が出てきて、表情はまたもや暗転。獺郷は藤沢市なので、寒川に近づいたと思って気分好くしていたのが、そうでもなかったのだ。川出キャップテンが便意を催してコンビニに入った。コンビニで熱いお茶を買ってきてくれた。トイレの使用料だ。礼儀正しいキャップテンだ。

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(左上の写真の奥の奥をよくご覧になってください。川出さんが、新春の登りくる朝陽に向かって、ションベンをなさっているのです)

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(俺は、いったい、何でこんな所までやって来て、何をしちょるのだろう?)

07:25、再び寒川町に入って、小休止。私は工事現場の簡易トイレを拝借。川出さんは、さすが人生の大先輩、朝日に向かって野ションベンを発射された。朝陽をバックに記念写真を撮った。

大蔵、小谷、根岸、宮前、最終目的地である寒川神社に到着、08;00。休み時間を余り取っていないので、川出キャップテンの思惑よりも30分ほど早く着いたようだ。神社では参拝者を迎えるための準備中だった。本殿を掃除していた。屋台も準備中。若者が民間の駐車場に車を誘導していた。売り上げを見込んでいるのだろう、何とか駐車させようと必死だ。

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『川出のオッサン(オッサンなんて、つい日常的になってしまった。すまん)、長谷部君、今年もよろしく』

全員集合は09:00だった。

結果から推測すると、我々は時速5キロ位のスピードで歩いたことになるようですね、と川出さん。早く着いたからといって早く団体受付をしたら、皆が到着する前に祈祷が始まってしまうので、会社からの車の到着をただぼんやり待つだけだった。早く着く奴もいれば遅い奴もいて、遅い奴に合わせるしかないと思うと、きっちり指定された時間にやって来た奴にさえも、どうせ来るんだったら、ちょっとぐらい早い目に来い、と思った。これって、よくない考えなんでしょうな。仕事始めの大事な日に、俺は可笑しくなりかけていた。

10:00頃、本殿、寒川大明神の前で、お祓いお清め、ご加護と商売繁盛を祈願した。

寒川神社で「頂いた」「パンフレット」を参考に、寒川神社の紹介をしておこう。神社から頂いたとは、適切な言葉の使い方ではないヨなあ、きっと「御受け賜わり(ま)もうす」か、「下賜された」か。頂き物は「賜物」だ。それにパンフレットって言い方はないヨなあ、もっと神々しい言葉を使わなくては罰が当たりそうだ。

寒川神社は相模国一ノ宮。

相模国を始め、関八州総鎮護の神として、古くから朝野の信仰が殊に厚く、およそ千五百年前、雄略天皇の御代に奉幣のことが記されており、以後御歴代の奉幣、勅祭が行われたとあります。醍醐天皇の御代に制定された延喜式では、相模国唯一の大社と定められ、特に名神大社に列せられました。

ご祭神は寒川比古命(さむかわひこのみこと)と寒川比女命(さむかわひめのみこと)、通常は寒川大明神と奉称しているそうです。相模大明神は相模国を中心に広く関東地方をご開拓になられ、衣食住等人間生活の根源を開発指導せられた関東地方文化の生みの親神であり、生業一切の守護神として敬仰されています。わけても八方除の守護神として、地相、家相、方位、日柄、交通、厄年等に由来するすべての災禍を取り除き、福徳開運をもたらす御霊験あらたかな神様として信仰されています。

2009年1月10日土曜日

岡田ジャパンの目指すスタイルは

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岡田武史監督の目指す、日本サッカージャパンの試合運びのスタイルが見えてきた。選手も実感をともなって共通認識を持ち始めたようだ。大型ストライカーの出現を期待するには無理がありそうだ、がJリーグが培ってきたものや、日本人のもつ俊敏性や生真面目さ、小兵ならではの特性を生かしたチームが確かなイメージで出来上がりつつあるように思う。朝日新聞の記事を参考にしながらまとめてみた。

先ずは、マルキーニョス(32)が、Jリーグ年間表彰式(2008Jリーグアウォーズ)で最優秀賞を受賞したことです。2連覇した鹿島のブラジル人FWで、初受賞で、得点王(21得点)、ベストイレブンと合わせて個人賞3冠に輝いた。このマルキーニョスが何故(なにゆえ)にこの最優秀賞に選ばれたかということだ。FWとして、最高得点をゲットしたことは、言うに及ばないが、それよりも何よりも、彼の守って得点するそのハードワークにある。鹿島の同僚が、口々に評する言葉、岡田ジャパンに定着した内田篤人は「前から激しく球を追って組織プレスのスイッチを入れてくる」、これまた岡田ジャパンの興梠慎三は「あの姿を見ると僕もさぼれない」。彼自身は「FWも献身的に守るのが現代サッカー」。並のFWがここまで守備に力を注げば本分の攻撃まで手は回らないもの。「そこは工夫した。1人でやるのではなく、仲間と協力してゴールに向かおうと」。岡田監督は、このような鹿島を百も承知している。彼の国籍は日本ではないので、岡田ジャパンに招請されることはないが、影響力は大だ。

前記の内容とオーバーラップするのですが、私には印象強く網膜に刻まれた局面と、それについての中村俊輔のコメントを聞いて、これこそ岡田監督が求めるゲーム運びなのでは、と思ったことがある。W杯最終予選の日本とウズベキスタン戦だったかカタール戦だか忘れたのですが、後半の半ばに交代選手としてピッチに入った佐藤寿人が、ボールをキープする相手選手を追いかけて、追いかけて、最後はスライディングして相手のボールコントロールを狂わせた。そのニュートラルになったボールを日本の選手が奪ったのです。このプレーを中村俊輔は「あのようにして、ボールを追いかけて、相手を潰すことが、攻撃のスタートなのです。彼はよく理解しているのです」、こんなコメントを静かに言い切った。岡田監督と、ゲームメーカーである中村俊輔の共通し合った認識なのだろう。前日本代表監督のイビチャ・オシム氏(67)の教え子の巻誠一郎も、前線で必死にボールを追いまわす。

マルキーニョスの頑張りに鹿島のメンバーが応えているように、FWが必死にボールを追いかけると、チームとしての緊張感は否応なしに引き締まる。士気は上がる。また攻められてもコースが絞られてくるので、守備はしやすくなる。守備がしやすくなると、攻撃へのエネルギーは温存されるし、攻撃に対する想像力は生き生きと澄む。

岡田監督が敬意を払い、何かとアドバイスを貰っていたオシム氏の、日本に在住中言い続けていた「走れ」、「真剣に全力で動いて取り組め」の言葉の重要さを、岡田監督はよく理解している。オシム氏の所産は偉大だ。

又、Jリーグ覇者の鹿島は岡田ジャパンの攻撃のヒントにもなったと思われる攻撃のパターンを確立した。マルキーニョスは、興梠慎三と息を合わせ、2人の縦パスで裏へ出る得意形を築いた。欧州リーグの映像を見返し、複数の連係で攻めるイメージを固めた、とマルキーニョスは言っている。中村俊輔や中村憲剛、長谷部誠、遠藤保仁から、時には大きく展開したり、時には短く、パスで繋いで繋いで、前線(戦)の狭いエリアまでボールを持ち込み、そこでタイミングを外しての、相手守備陣の裏でパスを受け、短い距離からの正確なシュートでゴールを奪うパターンだ。この戦法に合った選手がFW陣を占める。玉田圭司、佐藤寿人、大久保嘉人、田中達也、興絽慎三、香川真司、山瀬功治らだ。前線では守備で走り回り、球を奪えばゴール前へすぐに飛び出す田中達也は、インタービューで答えている。「自分に合う、自分を出せる戦術です」、と。また、ラテン系・田中マルコス闘莉王、オシムの申し子・阿部勇樹と巻誠一郎、野武士・中澤裕二等の個性も活かそうとしている。

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(11月19日のカタール戦の前半19分、内田からのパスに抜け出す田中達也⑧。この後先制ゴールを決める)

昨年の暮れのクラブ杯の準決勝で、優勝したマンチェスター・ユナイテッドにガンバ大阪が挑んだ試合では、ガンバ大阪のパスワークが評判だった、また元マンUのボビー・チャールトンさんは「インテリジェンス」と「平常心」を褒めていた、と朝日新聞は報道している。ボビー・チャールトンさんの、会場提供国としての日本に対する敬意と社交辞令による褒め過ぎ、評価し過ぎの感は否(いな)めないにしても、この場は身を引き締めて拝聴させていただこう。実際のゲームにおいて、マンUは手を抜いたとは言わないが、長旅の疲れもあったのだろうが無理はしなかった。先取点を取ってからの、マンUのゲーム運びには必死さが見えなかった。ところが1点差になると、ルーニーの劇烈なゴールで日本を突き放した。危機に陥っては爆発的に稼動する。この違いは何だ。サッカーの歴史の違いと、どうしても欧州と日本とのフィジカルの違いに行き当たる。この欧州との差を埋めるには、試合を重ね、国際経験を豊かに積み上げるなどの努力が必要で、その必要性は理解できても時間はかかる。弛(たゆ)まぬ不断の努力を続けることだろう。日本の選手は、外国のクラブチームにどんどん移籍して、試合に出ることによって練磨され、視界の広い選手になって欲しい。

岡田監督が、しばしば使う言葉の一つは「Our Team」だ。自分たちのチームだという意識を持たせている。私も、35~40年前大学でサッカー部に在籍していた。当時、私は、部員が宴席や何かと集まる機会に、言い続けていたことがあったのです。それは、人の「縁」のことです。我が大学には、北海道から九州まで、高校時代、名を馳せた名選手もいれば、私のようにレベルの低い選手らがごっちゃ混ぜに集まって来ていた状況の中で、武蔵野のグラウンドでサッカーをする為に集まったのだから、最長4年最短1年間、かけがえの無い制約された期間、実のあるように頑張ろうや、ということでした。人の「縁」を真面目に考えると、人の「絆」が深まるのです。「君と私、その他の仲間、コーチと監督、との邂逅。武蔵野のこのグラウンドで、一緒にサッカーの出来る幸せを徹底的に大事にしようということでした。Jリーグの各チームに所属してそれなりの評価を受けながら、尚、日本代表チームのメンバーとして、もう一段高いレベルのプレーを目指す気概と、日本代表に選ばれた者同士の「絆」と、誇りを持つこと。そのような精神土壌の中で、本気で戦うチームでしか得られない連帯意識を醸成する。そしてチームは一丸となる。そんなチームを岡田監督は構想しているのだと私は思っている。

それと、セットプレーの精度を今以上に上げることだろう。セットプレーは強豪チームにだって泡を吹かせることができるのだ。これは、妙味だ。日本チームの知恵の出しどころだ。

W杯アジア最終予選はこれからが山場だ。産業界は土砂降り状態で、気の休まるときがない。どうか、いい試合を見せ続けて欲しいものです。

2009年1月1日木曜日

やはり、クリスマス・イブは「銀河鉄道の夜」だ

東京演劇アンサンブルの年末恒例の「銀河鉄道の夜」を観てきた。第26回目の公演だそうだ。

081224/19:00~

作=宮沢賢治

脚本・演出=広渡常敏

音楽=林光

協賛=ケンタウルスの会

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今年は、私と私の娘(次女)と次女の息子(私の孫にあたる可愛い子です)と、次女の同居人K氏の4人で、いつもの練馬区関町のブレヒトの小屋へ行ってきた。年末のせいかクリスマス・イブのせいか、道路は大混雑で、横浜から2時間以上かかった。混んでる道路の傍にでも軽便鉄道の停車駅がないか、と夢想したのは私だけだったようだ。昨年は会社の忘年会を兼ねて、1回の公演を貸切にしていただいた。この20年程の間に、6回観ているものの、昨年も観たのだが、解らない部分を抱えたままだったので、今まで意味が解らなかった部分やセリフの聞き逃した部分を注意して、以前に観たのを振り返りながら、本を思い出しながら、じっくり観劇した。今回こそ完全に理解してみせるぞ、と気合を込めた。原作はきちんと読み直してやって来た。

私の後ろに座った中年のご婦人は、一緒に来たと思われる知人に「わたし、このお芝居、よくわからないのよね。映画ではわかったのですが」、なんて話していることが漏れ聞こえた。どんな映画を観たというのだろうか。私も、やっと前回ぐらいから、少しは解りかけたところだったのだ。宮沢賢治の世界は、難しいけれど、私にもようやく解りかけてきている。

原作を、映画化する、お芝居にする、絵〈画〉本にする。制作者は、原作者の作意というか、物語を起稿した本意を、各種各様に具現化して我々を楽しませてくれる。当然、原作者の筋書きのままのものもあれば、逆説的に、誇大に、時には反逆的に、アイロニー的に展開するものもある。いったん壊して再構築する作業だ。監督、脚本家や演出家のオリジナリティー〈創作意向)に委ねられ、具体的な作品になって、我々の目に晒(さら)される。

この宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のお芝居の脚本と演出を担当した、今は亡き広渡常敏氏の文章をパンフレットの中に見つけた。この広渡常敏氏の文章を読むと、先ほどの「わたし、わからないのよね」なんて頭を傾げていた人にも一助、理解できるのではないだろうか。

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  • 宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をご覧になる前に

    広渡常敏

「銀河鉄道の夜」の童話的構図について、私はこう考えております。

「銀河鉄道の夜」はめくるめくイメージを読者に吹き付けてくる。ぼくが中学生三年生の頃はじめてこの衝撃的な童話に出会って、ときめく胸の高鳴りをおぼえ、いいようのない感動を持て余した夜のことを思い出す。戦争の日々の暗い灯火管制の電灯の下で、この童話を読んでいる一人の中学坊主姿を思い浮かべる。現在の〈定稿)と部分的に異なっている箇所もあった。超現実の作品でそれも夢の中の物語だから、説明のつかない難解なところがあるにしても、溢れる燐光のイメージの中を泳ぐんだと、僕も思ったし友人もそう言っていた。

それは50年後の今日でもやはりそうに違いないが「銀河鉄道の夜」を舞台化するために脚本を書くとなると、夢の曖昧さでは済まされない。夢という意識化の海に潜められている詩人のエクリチュール(作品行為)をたどり、俳優が追体験できるように脚本が書かれなくてはならない。古くからの友人の一人は舞台なんか見たくない、作品の幻想的イメージがきっと壊されるだろうからという。だが演劇は文学から受けるイメージを舞台に再現するものではない。作者のエクリチュールの源泉に迫り、俳優自身の作品行為を行為するところが舞台なのである。

賢治の〈不完全な幻想四次元)世界では、人々の願いや祈りによって世界が変化する。思いが実現するのだ。そして銀河鉄度の彼方の四次元世界に〈お母さんのお母さん)がいらっしゃる。三次元現実の〈お母さん〉は病気で、ジョバンニの牛乳を待っていらっしゃる。四次元世界の〈歴史の歴史〉は三次元現実では〈歴史〉となる。どうやら幻想四次元の投影として三次元現実があるらしい。さながらマルセル・ジュシャンの投影図法のようでもある。もしーーー三次元現実の人々の願いや祈りが、銀河の後方の幻想四次元世界に届くならば、不動と思われる現実も変化することができるかもしれない。このような祈りにも似たユーモラスで稚気あふれる世界像が、「銀河鉄道の夜」の基軸構造である。

櫓のまっくろに並んだ坂道で立派に光って立っている電灯の下に自転車のスポークのように四方に伸びているジョバンニの影たち(二次元)。それらの影が地面から起き上がって(三次元となって)ジョバンニを取り囲む。ジョバンニは三次元から四次元へ出発することになる。銀河ステーションに夜の軽便鉄道の音が近づいてくるのだ。

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銀河の底でうたわれた愛のうた

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詞・広渡常敏

曲・林光

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ひとすじにやさしく まなかいにいつまでも 愛

貝殻に火をともし あの人の名前を呼ぼう

さそり座揺らぐ夜

麦の穂をくちびるに 願いごとささやこう

乙女座燃ゆる夜

ひとすじにやさしく まなかいにいつまでも 愛

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