33回の世界記録を更新し続けた。
種目 は全て自由形と思われるのですが、どの距離の競技に何回世界記録を塗り替えたのかは、知らないのです。33回も世界記録を更新したことはラジオ放送で知った。
日本オリンピック委員会(JOC)や日本水泳連盟の会長を長く務め、水泳のみならず広くスポーツの振興が若者を立派に育てていくのだと、強い信念をもって役職をこなした。その古橋広之進さんが、世界水泳選手権が行われているローマで亡くなった。80歳だった。世界選手権に合わせて開かれていた国際水泳連盟総会において副会長に再任されていたばかりだったという。日本水泳連盟の現役名誉会長だった。
1828年、静岡県浜名郡雄踏町(現・浜名市)に生まれた。
頭角を現したのは、1945年日大に入って、終戦を迎えてからだ。軍需工場で左の手の中指の第一関節から先をなくした。大変なハンディだった。
(競技の記録については、3日の朝日新聞の記事から抜粋した)
写真①
写真①は、日本が不参加だったロンドン五輪が開催された1948年8月6日、東京・神宮プールでの全日本選手権で1500メートル自由形で18分37秒0の世界記録を作った時のものだ。当然、400メートル、1500メートル自由形はロンドン五輪の金メダルよりはるかに超える記録だった。
写真②
写真②は、1949年8月17日、ロサンゼルで行われた全米水泳選手権、1500メートル決勝で優勝。2位の橋爪四郎さんと握手しているところです。前日、1500メートル自由形で世界新を更新した。米国のマスコミは、「フジヤマのトビウオ」と呼んだ。この米国での称賛は、戦後混乱期の不安に包まれていた日本の国民に強く勇気付けた。
Oh !! He is a like flying fish ,in fujiyama !!とでも言ったのでしょうか。浅学の私にはこの程度の和文英訳です、皆さんの添削を求めます。全米水泳選手権から帰国、神宮プールでの凱旋水泳大会では、会場は超満員で、会場に入りきれない人々が神宮の森に溢れたそうです。
このように世界新記録を33回も更新したのは凄い。学校を卒業して民間会社に勤務したものの、退社して日大の教員、教授を経て日本水泳連盟の仕事につく。立派な選手だった人が、立派なコーチになれるとは限らないし、日本水泳連盟のような組織で、その役務を立派にこなせる能力を併せて持ち合わせている人の存在は、稀有なのだ。
2016年の東京オリンピック招致には、活発にロビー活動をしていた。何を考えてオリンピックを招致しようとしているのか怪しい郎党、金の走狗、出しゃばりな政治家の中で、真にスポーツを愛して止まなく、スポーツのもつ根源的意味の追求、人間の尊厳の表現としてのスポーツがいかに人類に必要なのかを、一番理解されていたのだろう。
古橋広之進さんは、水泳にとどまることなく、スポーツ全般に広い見識をもっておられたので、日本オリンピック委員会の会長も務められた。競技者としての輝かしい記録は、誰もが目を瞠るものだったが、競技から現役を退いてからの彼の功績は、もっと輝かしい。学閥を嫌い選手養成に能力があると認めたコーチを日本代表チームに抜擢した。シーズンオフには地方を回り、要望を聞いて、風通しの良い組織運営にいかした。
死に際が、また凄かった。
今開催中の世界水泳選手権の連日の暑さにもかかわらず、応援席にいた。今大会にかかわらず、どの大会においてもプールサイドに陣取って、選手を見た。陽の当たるところでは40度を超えていた。屋外プールでの競技だったので、ご老体には余りにも厳し過ぎたのだろう。最後は、午後の決勝を見るようにしていたそうです。亡くなる前夜は、水泳連盟の役員達と一緒に食事をして、ホテルの部屋に戻った。翌朝、予定にしていた競技を見に行くためにロビーで待っていた人たちが、部屋から出てこられないのを心配して、ホテルの係りの者に部屋を覗いてもらったところ、ベッドで亡くなっていたというではないか。
教育者でもあった。若い競技者に暖かい視線を投げ続けた。岡野俊一郎さんが、何故、そんなに早く泳げるようになったのですかと尋ねたら、魚のようになれるように努力することなんです、と答えていたようです。このような発言は、若いスイマーにも常に、言い続けていたようです。。
80歳のご老人が、死の淵の淵まで、世界の覇者を競うプールサイドにいたなんて、この事態を私には尊敬とか、偉いとか、私の持ち合わせている言語では、言い表せない。こんな死に方をする人なんだから、時間の過ごし方が、一徹で、熱情的で、真摯で、研究熱心だったのだろう。深い愛情をもってスイマーに、アスリートに接していた。もう、これは人類愛の極(きわ)みだ。
我が家人は、遺族の方々や関係者の悲しみの気持ちを斟酌なく、格好いいねえ、と言っていた。失礼を省みず私もそう思う、この御仁は実に格好よかった。
往生際の神々しい死に方は、私の脳裏を刻んだ。
090804
朝日・朝刊
天声人語
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ふんどしの上に水泳パンツを重ねて世界記録を連発した人である。古橋広之進さんは「水着争い」に冷ややかだった。客死の地となったローマの世界選手権を境に、高速水着に歯止めがかかるかもしれない。トビウオ80歳の遺言にも思える。
食べるのが精いっぱいの戦後、日大水泳部の主食はスイトン、マメカス、トウモロコシで。コメは1升を30人分のおかゆにした。交代で農家を回り、買い出したイモの半分を闇市でさばいてやりくりしたという。
戦中、防火用水に使われたプールの水は濁り、藻がわいていた。敗戦で打ちひしがれ、餓える国民はスポーツどころではない。だからこそ皆、古橋さんの快挙に歓喜し、勇気づけられた。
1949(昭和24年)年に招かれた全米選手権。占領軍を率いるマッカーサー元帥は「徹底的にやっつけろ。それがアメリカへの礼儀だ」と励ました。圧巻は初日の1500メートル自由形予選だった。A組で僚友の橋爪四郎さんが世界新を出す。30分後、B組の古橋さんはそれを17秒近くを縮めてみせた。
「日本のプールは短い」「時計がのろい」といった陰口は消え、反日感情が尾を引くロサンゼルスの空気は一変した。当人は「フェアな一面に接し、私たちも彼らに対する認識を大いに改めた」と回顧している。
同じ年、日本は湯川秀樹博士のノーベル賞にもわいた。スポーツで科学で、再び世界と競える喜び、分かり合う幸せ。国際社会復帰への自信は、経済大国へと引き継がれる。裸一貫での再出発にふさわしい、時代が欲したヒーローだった。
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