2006年12月8日金曜日

茨木のり子さんの遺稿 来年詩集に

夫への愛 40編

気骨の人 別の一面




茨木のり子さんの遺稿が、来年詩集として出版されると新聞記事で読んだ。


よかった。嬉しかった。


忘れかけようとしていた、茨木のり子さんが紙面といえども私の前に再び現れてくれたことに、喜んでいる。


私は、大学生だった4年間、東京は武蔵野、東伏見のグラウンドを核に直径2キロメートルの範囲内で浮遊? 暮らしていた。



東伏見は、入学時は、東京都北多摩郡東伏見町だった。それから確か3年生の時に、東京都保谷市東伏見になり、現在は東京都西東京市だ。 

 

朝から晩まで、サッカー漬け生活だった。当時毎日といってもいいほど会っていた牛島孝之さんから、彼女のことを教えてもらった。牛島さんは、あたかも自分の恋人のように話してくれた。


(注)後日、牛島さんのことについて、記述する機会はあろうかと思われますが、今回は、素通りです。


「茨木のり子さんは、詩人です。何に対しても、端然として毅然、気骨の人。この人の詩にガ~ンとやられてからは、私は盲目的な読者になりました。時々、グラウンドにも現れるのですよ。私はそのことも気になって、毎日、ラグビーとサッカーを見に来ているんですよ」とも言っていた。


牛島さんから彼女の詩集を借りて読ましてもらった。その時は、唯、強い女性だと思った。


当時の私は、詩集を読むなんて柄に合わないと、ハナカラ決めてかかっていた。詩集を手にするだけで恥ずかしかったのです。何故って聞かれても、当時若者だった、私の心情は複雑でした。


それから、約35年経った。私の蔵書に茨木のり子さんの詩集は増えた。読後の感じ方も随分変わってきたように、思う。


その茨木のり子さんが、今年2月に79歳で亡くなった。


死を知った時、彼女の体の状態などお構いもなしに、もう茨木のり子さんの詩を楽しめないのか、と、咄嗟に不肖のファンは悲しんだ。私は恥じた、不埒な読者、詩不適確者かもと。




40編の遺稿が見つかった。「歳月」と題した詩集にまとめられ、来年2月の命日に出版される。夫と二人の世界、だそうだ。




2006年12月4日の朝日(夕)より


「新婚の夜のけだるさのなか


わたしは思わず呟いた


どちらが先に逝くのかしら


わたしとあなたと」 (『その時より』)



今年6月 東京都西東京市の自宅の書斎で、甥の治さんが「Y」と書かれた箱を見つけた。「Y」は75年に死別した夫・三浦安信サンの頭文字。中には錆びたクリップで留められた原稿の束があり、掲載順も記されていた。 

 

治さんが作品の存在を聞いたのは数年前だった。「なぜ生きているうちにださないの」と聞くと、(照れくさいのよ)と笑った。出版元になった花神社の大久保憲一さんには「最後の詩集はよろしく」とだけ、頼んであったという。


今年2月17日、茨木さんは友人に配る別れの手紙を用意したあと、くも膜下出血で亡くなった。


「本人にとって本質的なことはすべて、死ぬ前に肩がついていた気がします」。治さんはそう振り返る。


戦後の世のあり方を問いかけた代表作とは違い、(歳月)は安信さんへの思いや男女の心の機微を描く。安信さんが夢枕に立つ「夢」、夫が入院する前に最後の食事を囲んだ思い出の「最後の晩餐」、通勤路に足跡を見出そうとする「駅」。


大久保さんは「人間がこんなにも深い愛情を持っていて、それを惜しげもなく詩にできた才能に心を打たれた」と話す。


23歳だった茨木さんが8歳年上の医師だった安信さんと結婚したのは49年だった。私生活について多くを語らなかったが、取材に訪れた学生に「(自分の世界を持つことを)夫が理解してくれ、育てようとしてくれた。上等の男性でした」と話したこともある。安信さんを亡くした後は、共に過ごした家で、ひとり暮らした。


死後、寝室の枕元で小さな木箱が見つかった。何度も触った後があり、安信さんの戒名と「骨」が数かけ入っていたという。

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