友人のことをどうしても書き留めて置きたいと思った
『猫・愛情物語』
05 4 1から
(注)正月にPCを整理していたら、保存されていたこんな文章があったので、一部加筆して公開した。随分以前の文章だが、その時は何かのためにと思って書き綴ったのでしょう。
友人のホームページを覗くと愛猫家だとは直ぐに分かった。
最初のうち、そのパソコンの画面からは、友人の表面的な人となりを知ることはできたが、当然と言えば当然な話だが、友人の心の深奥までも覗き見ることはできなかった。それから、私の経験したことの無い、今まで知ろうともしなかった、私にとっては、別世界に引きずられてしまったのだ。
友人は、まず野良猫を拾ってきては里親探しをしていることに、私は興味を引いた。何でそんなことをするのだと思った。野良猫を拾ってきて、最初にすることは動物病院に連れて行き、診断してもらうのだ。元気に荒野を駆け巡っていたのだから何もそこまでしなくてもいいのではないかと私は思ったのだけれども、野にいる動物たちは何かしらの病気に罹っていたり、お腹に虫が湧いていることが多いそうなのだ。当然、保険はなし、診療費は自腹で賄うのだ。
春は、盛りの時季、交尾を求め合う恋人たちが、威勢良く走り廻る。この時期に入る前に友人は頑張るのだ。避妊をしてない奴を捕まえて、避妊手術を施すためだ。丁度ネズミ捕りを二回り大きくしたような猫捕獲機があって、友人は、よく出没する場所に仕掛けては、遠くから猫が捕獲機に入るところを息をこらして待つ。入ればそのまま風呂敷か布でかくまい自宅に連れて帰り、朝を待って動物病院に連れて行くのだ。
朝は仕事を控えているので時間が無い。よってタクシーを使わざるを得ない、当然自腹だ。診断してもらい、診断次第では治療も必要になることがある。注射や薬が必要になることのほうが多い。避妊をする。手術したときはお泊りのこともある。高額な治療費になることもある。連れて帰り、友人の判断で、荒野でも生活できそうな奴は再び野に放し、病気や怪我で野に放すには忍び難い奴は自宅にて回復を待つ。そして人間との共同生活に慣れてきた奴を、インターネットで里親捜しを開始するのです。
野良猫全てに避妊手術をしなければ、野良猫たちはどんどん増えていく。一年間に2、3回妊娠するそうです。そして、人間との悲しい戦い?不毛なトラブルが発生しては、結局は猫が殺されることになる。その悲劇を未然に防ぎたいのだ、と友人は言う。
そして、野で暮らす猫にも餌をあげたい。友人は餌とは言わないのです、お食事をあげたい、と言うのです。野良猫を捕まえては、このような活動をしている人に対して、格安の治療費で対応してくれる獣医さんもいてくれる。心ある獣医さんもいらっしゃるのだ。友人が活動しているエリアにいる野良猫は、どいつのことも素性を把握済みです。避妊手術済みの奴、避妊してやりたくてもどうしても捕まらない奴、群れをなす奴らの血縁関係、人懐っこい奴、びくびくしていて近寄ってこない奴。
私はここで、猫のことをやつ(奴)と言っているけれども、友人はあの(子)と言う。あたかも自分の子供(肉親)のように接しているのです。
以前、愛犬家の私は友人に言ったことがある、雨が降ると私は嬉しいのだと、何故なら私は犬を3匹飼っていて散歩が犬と私の共通の楽しみなのだよ、でも頭の痛いことがあるのだ。犬の小便のことで悩んでいるのです、っと。電柱や植木や塀に小便を掛けてはマーキングをする。特に大型犬のゴン(ラブラドール、レトリバー)は小便の量が多く私は気をもむのだと。又、マーキングの回数も多いのだ。小型犬のツバサ(ミニチュア ピーシャ)とポンタ(シーズ)は小便の量が少なく6、7回したら後は小便をしている恰好をしているだけで,肝腎の小便はほとんど出ていないので、いいのだが。
雨が降ると、気にしている犬の小便が水洗トイレの如く洗い流されて,私の気が楽になるのですよと言ったら、友人は、私は雨が降ると嫌なのです、憂鬱になるのですよ、と仰るではないか。
野良猫は雨が降っても雨宿りの場所をそれなりに確保はするのだろうが、寒い冬の氷雨の時などは、小さい体力の無い子猫や病に罹っている猫にとっては、命がけのシノギになるのであろう。
友人はそれらの猫のことを真剣に心配する。あたかも自分の子供のことのように気に掛ける。その優しさに心打たれた。
インターネットで里親希望者がアクセスしてくる。そうしたら、会う前にお互いの情報交換をする。里親希望者の住まいの状況、マンションなのか一戸建住宅なのか、そして猫が日常過ごす部屋はどんな状況か、サラリーマンなのか学生か自営業者なのか、何人暮らしなのか、小さい子供がいるのかいないのか、飼いたいと思う動機は何か。
里親になってもらう以上、猫をお預けするルールを一通り説明して納得してもらわなければ、話しは進まない。猫の一般的な性向、預ける猫の性格、性分、癖、などを伝える。猫との同居に慣れている人ならば多少は安心できるのだが、初めて猫を飼う人には、こと細やかに話し合う。
それから、お見合いだ。
お試しコースというか、一時預かりもやってみる。
ようしそれでは、一丁頑張ってみるかと両者が合意したら、今度は契約を締結する。これは双務契約であるから、里親になった者には猫に対しての扶養の責任と義務を負わされ、送り出した方は、里親に何か事情が発生して飼えなくなった時には、責任をもって引き取ることなどを取り決めるのだ。私には驚きだった。何でそこまでやらなゃ アカンのか?と。命あるものに対する尊厳なのだろう。
里親に猫を預けて、一定の期間は両者間にて、情報交換することも義務づけられている。何も連絡を呉れない人もたまには居るそうだ。そんな場合には次のようなことにも発展する。いくら待てども、里親からは連絡が無い、メールも電話も応答がない。心配で心配でどうにも堪らない日々を過ごしていたのだが、とうとう友人は直接行動に出た。里親を訪ねてみたが、家は灯りが点いたままの留守だった。友人は奇襲 家宅捜査に突入。二階で一人ぼっちで留守番をしていた猫を保護。無事に保護して連れて帰ったそうだ。そんなことを平気でやる人なのだ、友人は。身内の命を救うためには、当たり前のことをしたと平然だ。保護され連れて帰られた猫は、今は凄く可愛がってくれる里親さん宅で極めて平和な生活をしているそうだ。
こんなこともあった。
猫捕獲機で捕まえた猫を病院へいつものように連れて行った。東京のとある動物病院では、友人たちの活動について理解があって、メスもオスも避妊手術代が通常の半額でやってくれるというので、ゲージにいれて連れて行った。治療費が半額となれば、多少遠かろうが電車代がかかろうが、絶対的にお得なわけで悩むことなく、その病院に連れて行った。こういう情報は友人たちのネットワークで知らせ合うそうだ。お泊りにして、翌日迎えに行った。ところが、昨日預けた猫が、朝 死んだと知らされた。何故だ? お医者さんの説明では、横隔膜が破損していたと仰るではないか。捕獲機に入る時に強く打ったのではないでしょうか、と言われた。私は麻酔ミスではないかと疑った、友人もちらっとそのようなことも考えてはみたけれどもと言いながら、いつも厳粛に、まずは自分を責める。死んだ猫にすまないことをしてしまって御免と、静かだが強く自分のとった行動を省みる。誰が悪いのだ? 何故、そこまで自分を責める? 神様、友人に何か手落ちがあったとでもお思いですか。
こんなことの、一つ一つが私を驚かせた。
友人たちのネットで、車に轢かれたと思われる猫が道端に放り出されているという情報をキャッチ、友人は地図を頼りに見知らぬ所へ紙箱をもって現場に駆け参じては,収納して、公営の焼却場で焼いてもらうのだ。できるだけ早く現場に向かわなくては、ニ重三重に轢かれてしまう。収納したら公営の焼却場に予約をいれる。要する費用は、友人たちの行為を理解してか、通常の半額だそうだ、それでも自腹だ。轢かれて死んだ猫を見つけたら、私ならどんな行動をとるのかなと想像してみるが、ただ見捨てるだけだろう。それ以外の行動は無い、確信もって無い。今まで俺はそんなことを考えたことはないのだ。そんな人たちが世の中に居るなんて想像したこともないのだ。
友人は、仕事を終えてから東京日本橋に向かうと仰る。
横浜で仕事を終えるのが夜6時か7時頃だとしたら、日本橋に着くのはその一時間後、7時か8時だ。何をするのかというと、知人か友人か仲間が、捕獲 保護した猫を何かちょっとしたミスで取り逃がしてしまった、その猫の捕獲作戦だ。友人らは捕獲機で捕まえようとする。作戦は、そりゃ早ければ早いほどいい訳で遠くへ行かないうちに、車などに轢かれないうちに、徹夜で見張り続けたけれど、一日目は成果なしで、始発の電車で自宅に戻った。電柱には、迷い猫の情報を求むビラを張り、チラシをまいて猫の消息情報を待つ。休日も同じ様に辺りを捜索。
私にはできない。
私にも、友人にも、この世で与えられている時間は限定されているのだ。個人的には多少の相違があっても、その限定されている時間の消費方法には優先順位が必ずあって、合理的に費やしていくわけだ。無理すると、結果的に自分に無理が降りかかってくる。よって無理をしないで下さいなんて、余りにも日和見的な、軽率な意見は言えないけれど、ボチボチやってください、と遠くで祈る。こんな活動をしている人がいるとは、私には思いも付かなかったし、想像の域に及ばなかった。これからは、私の願い事だ。このような活動している人たちに、社会の光が差さないものかと。もっともっと世の中で理解されてもいいのではないのか?
野良猫が町をうろうろするのを嫌う前に、この世に生まれてきた猫の命がまずそこに存在して、その生を受けた猫には生き続ける権利が生まれながらにして享受できる筈なのだと考えるべきなのだ、と教えられた。だから、餌も必要だし、罹病の子や傷を負っている子には治療が必要だ。弱っている子、困っている子、何かの原因で途方にくれている子に援助の手を差し伸べることを、友人たちは自然体でできるのだ。私にも、やっと、友人たちの活動の内容が分かりだした。
以前から、猫が嫌いだった。
野良猫が我が家の池の魚を食ってしまった、盛りのついた猫が深夜から朝にかけてギャアギャアうるさくて、猫のことをどうしても好きになれなかった。でも、そんな猫にも近所にはスポンサーがいた。猫ニャンおばさんだ。権太坂の有名人です。(猫ニャンオバサン)は、夜な夜な他人の目を憚りながら猫の餌を彼方此方に置いていた。あなたが餌をやるから、猫はいい気になってはびこるのや、どんどん増えていくではないか。そんな風に、猫ニャンおばさんを俺は本気で嫌っていた。
そんな猫ニャンおばさんだが、時には、皆を楽しく驚かしてくれることもあった。昨年の年の瀬も押し詰まった12月29日。場所は東戸塚駅前の横浜銀行の自動預入機の前。新年を前にして、ATM機の前は長蛇の列、その列の中ほどに長身の彼女が首に猫を巻きつけて並んでいるではないか。私だけかな、ぎょっとしたのは。防寒と触れ合いを兼ねての猫ニャンの様は、微笑ましさと驚きの不思議な光景だった。
子供が夏,セミを捕ったり魚を掬ったりする網だ。竹の柄の先に直径30センチほどの輪に網がついている子供必携の網をもって、友人は行く。真剣な表情で友人は行く。何か重大なことを決意したのだろう、表情に迷いはない。友人は里子に出した猫を捕まえる?のだと言うではないか。 何処で、何で?と思った。里子に出した猫は大変元気者で、ちょっと乱暴者で気が荒く、里親に引き取られて半年も経つのに、里親は一度も猫を抱いたことは無い。抱かしてもらったことが一度も無いのですよ。マンションの同じ部屋には住んではいるのですがね。予防注射をしなくてはならない時期がやってきた、どうしても捕まえることができないので、友人に出動要請がきたのだ。部屋の中を大人3人で追い回して網でやっと捕らえて、そのまま袋に入れた。袋からは網の柄が1.5メートル突き出している。そのまま車で動物病院直行、病院で順番待ちの人たちには吃驚まなこで見られた。得たいの知れない袋は不思議な視線を浴びたそうだ。
そこでだ、私には分からない。そんなにしてまでも暮らしたい、猫との生活。不思議な夫婦だ、寛容な人なの? 度外れて猫が好きなのか? 私には想像のつかない別世界の人のように思われる。まだ抱かせてくれないのですよ、静かに微笑みながら話すその夫婦のことは、私には理解できない。心の優しい人たちであることは、間違いないと思う。その後里親になって約1年後、この頃やっと少しだけ触らせてくれるのですよ、嬉しそうに知らせてくれたそうだ。
2005 4 15 朝日新聞 朝刊より。
米国ウィスコンシン州で11日、州の自然保護や資源活用の方針を決める自然保護会議が72の郡で開かれ、(人の手を離れて野生化した家猫は動物保護の対象ではない)とする提案を72郡の賛成票計6830票,反対票計5201票で可決した。自然保護団体は(猫の狩猟に道を開く提案だ)として反対している。~~新聞記事はここまで。
この新聞記事を読んで感じたこと。
野良猫だって、生きとし生けるものとしての生きる権利があって、生き続けられることの保証が確保されなければならない。人間の無責任さに対する反省、今後の対策を検討しなければならないのではないだろうか?と。人間が行った無責任な行為の報いは、やはり人間自らの行動で帳消しにしなくてはならないのだ。野放しにしてしまったのは誰なのか、何故そんな結果になったのか、その実態を元に戻せる方法はある筈だ。何もそんな険悪な銃を持って処理するなんて、そんな方法を選択するなんて愚の骨頂だと思う。銃をもって処理しても構わないなんて、極めて非文化的なことよ。そんなことが平気に行われる風潮がおこって、人の心の奥深いところに密かに住み着くと、その先に何かぞっとするような、見えないが巨大な悲劇が待っているような、寒々しい予感がする。最近日本で発生した、子供が子供を殺した残忍な殺人事件を思い出してみて欲しい。大事件が発生する前に必ず前兆がある。少年は、虫を殺し、カエルを殺し、猫を殺し、果てに少女を残忍な手法で殺した。
日本橋で取り逃がした猫の捕獲作戦はその後も続いていた。最初にその件を知らされてから、もう2 3週間も経つのに、現場では作戦が継続中だったのだ。なんちゅう執念深さよ。目的の猫ではなくて別のオスの猫を捕獲しちまった。怪我をしているので、治療が必要、友人は治療費をカンパして帰ったそうだが、保護した友人の仲間は、夜は自宅で過ごし翌日病院行きだ。お金も時間もかかる、与えられた自分の時間を切り裂いてまで不幸な不遇な猫にプレゼント。涙なしでは語れない よ 。
先日(2005 4月のある日) ニューヨークにいる長女から電話があって、その時彼女が話したことが、友人のやっていることと同じなので興味を惹いた。長女は夫が仕事に行っている間、自由になる時間を利用して陶芸教室 英会話のレッスンに通っていたのだが、英会話で知り合った人の紹介で、犬の里親探しのボランチィア団体のお手伝いをしているのだと言うではないか。何らかの理由で飼えなくなった犬を、犬を飼いたがっている人へバトンタッチする仕事だ。長女よ、生きとし生ける犬たちの幸せのために頑張って欲しい。動物虐待も世界の各地で行われている。長女のやっていることや友人がやっていることからも(世界のまるごと平和)に通じる何かが見えてくる。そんな気がするのです。猫の里親探しもやっているのだろうか? 下手な英会話教室よりも、実のある英語上達方法かもしれない。
友人の話を続けよう。
この前、横須賀の里親さんに猫を預けてきたのです。そこの家庭はご主人さんがリタイヤーしていて家事を任され、奥さんはお勤め。子ども3人、一番上の息子さんが今年大学受験だそうだ。奥さんが友人のホームページの里親探しにアクセスしてきた。「今、我家には猫5匹いるのだが、あなたのホームページに載っている里親探しの?の子が、以前自分の家に居た猫にそっくりなのです」。その猫の思い出が、どうしても頭の中から抜けない矢先に、このホームページの?子に巡り合ってしまった、ということらしい。私にとっては、もう既に5匹も家に居るのだから何も、他に、もう一匹も求めなくても、十分じゃないのか?と思うのだけれども、そこが私の常識と違うところだ。友人は、そういう人だから、里親になってくれるのだ、と語る。
ご主人さんがしてくれた面白い話を紹介しよう。
5匹いるどれかの猫が、ある日、今大学受験で頑張っているお兄ちゃんに、当然何か原因があってのことだとは思われるのだが、叱られた。叱られた猫は、納得できなかったようだ。何故、叱られたのか、その理不尽さが理解できなかった。やがて怒り心頭、反撃にでた。お兄ちゃんの机上に広げられていたノートに大きいウンコをして、自らの怒りをぶちかましたそうです。その子はなかなか、いい奴なんですよ、とどこまでも猫に優しいご主人さまでした。その後、この猫は家庭内野良をしているそうです、と仰っていたので、少し心配している。
ある日のこと。
東大和市のシェルター85匹の野良ちゃんを保護しているグループがある。そのことを聞いた友人は、自分にもまだ協力できる余裕があるので、是非協力したいと思いつき、いざ東大和!参上。保護している会員の一人に円福家がいて、その人の所有する建物を、保護するスペースに無料で使わせてもらっているそうだ。世話人の一人が友人におっしゃった。私達のグループは何とか会員同士で、やり繰りしながらでもやっていけるので、私達の方よりも、昭島で頑張っている?氏の活動を助けてやって欲しい、と。
友人はその意を汲んで、急遽、会員の案内で昭島に歩を進めた。私には進撃のように思われた。
昭島の?氏は65匹を一人で保護しているのです。?氏の夫は、市の委託を受けて再利用可能な資源を回収する会社を経営していて、回収で巡回中に捨て猫を見つけては自宅兼会社に連れて帰って、保護している。そのうちに、65匹にまでになってしまったそうだ。社長夫人が、もっぱら世話役のように思われた。「ある猫は保護して、ある猫は知らん振りをして見捨てる、そういうわけにはいきませんよ」社長夫人のお話はごもっとも、当然と言えば当然の話なんだけれど。
私には何かが可笑しい、何かがちょっと狂っているぞ、と思われてしょうがない。
どんどん捨て猫が増えている、行政はノータッチ。捕まえて保健所に届ければ、ためらうことなく、殺す。猫の命の尊さは、役所では一考なし。自動的に薬殺される。猫の命を本気で心配して、なんとか生きながらえるようにしてやりたい、と活動しているのはほんの少数のボランティアの人達だけだ。この実態に社会の関心がもう少し高まってもいいのではないのか。私の整理できてない頭とは裏腹に、平気?で、むしろ嬉々?として、当然のごとく、保護に精出す人達の活動に、社会はもっと関心をもつべきではないのか。
簡単に、猫を捨てるな。
その友人は昭島から、子猫3匹を預かって帰った。捨てられた猫は自ら自分の身を守らなくてはならない。ひ弱な子猫といえども、いかなる敵にも自分の命は自分で守らなければならない。当然、気性は激しく獰猛になる。その猫に食事と寝所を用意して、食事を与えてくれる人はこの人なんだと安心すれば、やっと猫は初めてその人に寄り添ってくる。そこまで、人間とのコミュニケーションができるようになれば、里親探しを開始する。そして、良縁を待つ。
インターネットの里親探し情報に、申し込んでくる人は、さまざま。友人は里親宅を猫と共に訪問する。そして、見合いだ。
これからも、この里親探し活動は続くのです。活動家の人たちの精神には頭がさがる、労苦を思うと気が重い。
友人は、介助犬や盲導犬についても、人間による動物虐待ではないかと主張する。人間さんのことは、人間たちで完結すべきだ、と。もっとものようで、簡単には拒否できない。友人とのコミュニケーションを深めたいと思っている。
続きはありますので、しばしのお待ちを。
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