2008年2月3日日曜日

福士さんに、リンゴの花冠を

1月27日(日)に行われた大阪国際女子マラソンは、北京五輪代表選考会を兼ねていた。長居競技場を発着の42.195キロ。中学時代、保健体育の授業で42.195をシ(死)ニイ(行)クゴーと憶えた。それ程マラソンは過酷なレースなのだ。5000メートル、ハーフマラソンなどの日本記録保持者である福士加代子(ワコール)は序盤から飛び出したが、30キロ以降に失速した。練習不足からの失速。19位だった。1位はイギリスのマーラー・ヤマウチで2時間25分10秒。

何もかも無茶だった。初マラソンに向けての調整期間が1ヶ月と通常の3分の1で、練習での最長距離も約30キロだと新聞報道で知る。余りにも無謀だった。無茶苦茶だった。「もっと綿密な計画が必要だった」と、レース後永山監督が言っている。なんだ、この監督は。余りにも無責任ではないか。万が一、選手に重大な取り返しがつかない支障が発生でもしたらどうする心算だったのだろうか。監督は、選手の体の調子をベストの状態でレースに臨めるようにコーチするものではないのか。多少不足があったとしても、福士ならそんなハンディを乗り越えてくれると判断したのだろうか。指導者に重大なミスがあったことはゆがめない事実だ。私は怒っています。

そんな状況のなかで、福士は福士らしさを見せてくれた。私は、涙を拭うことも忘れて夜のスポーツニュースに釘付けになった。レース中は仕事だったので、ラジオからの端々のニュースで、トップを走っていたこと、足が止まりだしたこと、順位をドンドン下げていることを知った。気が気でならなかった。足がもつれて何度も転んだ。またゴールを目の前にしても転んだ。なかなか、ゴールに届かない。転んでも転んでも、満面に笑みを絶やさなかった。笑顔が清々しい。童女のようなあどけない笑みに心が打たれた。足はフラフラ、意識は朦朧、視線は宙を舞っていた。でも前に進む。人形浄瑠璃のようにも見えた。アスリートとしての気魄のみだ。津軽の厳しい気候と風土が彼女を作り出したのではと思い巡らせていたら、かって旅した津軽のあっちこっちを思い出した。

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(ゴール直前で転倒する福士加代子選手)


出身は、雪国青森、津軽の五所川原工高。所属はワコール。38年前、私が大学生だったときに、当時読み耽っていた太宰 治の生家を訪ねたことがあった。五所川原から津軽電鉄に乗って金木町で降りた。列車には、薪は焚(た)かれていなったたが、ストーブがまだとり外されていなかった。太宰の作品の中で一番気に入っていた「津軽」の文庫本をポケットに忍ばせながら。就職試験の専務さんとの最終面接で、初めて給料をもらったら、君はどうするんだ?と聞かれた。ある私鉄の親会社だった。そんな質問に私は太宰 治の全集を買いたいのですと言ったら、専務はうかぬ顔をしていた。このオッサンはアカンなあと直感した。学生時代には、太宰の弟分の田中英光の全集を古本屋で買った。嬉しかった。

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(青森県北津軽郡金木町の太宰 治の生家)


太宰の生家を見学して、裏の「バー斜陽」で安いウイスキーを飲んだ。マスターに太宰の話をふっかけても、何も戻ってこなかった。5月の頃だった。桜が散ってリンゴの花が咲いていた。見慣れぬリンゴの花を記憶に留めようと思って詳細に見たつもりだったが、今は思い出せない。梅のようであり、桃のようでもあった。雪深いと教えられたが、雪国での生活はいくら説明を受けても、想像の域を超えていて理解できなかった。北の方には竜飛岬がある。凍(い)てついた波が、そそり立つ岩壁にぶちあたる。冬の荒涼とした、まさに”冬の自然”が剥き出している、と言われている。岩木山に登った。サッカー部の現役だった私は、走って登った。ちょろいちょろい(極めて平易だった)。津軽富士といわれていて、稜線が長く穏やかな山容だ。

こんな津軽で、福士さんは育ったのですね。今回は苦渋をなめた福士さんに、リンゴの花のお冠を心を込めて捧げさせてくださいな。私のささやかな福士さんへのご褒美です。どうか、福士さん、マラソンを選ぼうがトラック一途でいこうが、よく考えていただいて、これに懲りずに頑張って欲しいのです。雪深い季節が終わり、リンゴ畑が一斉に白い花を咲かせるのです。福士さんにはリンゴの花が一番お似合いなのではと思いを馳せた。あなたの笑顔をいつまでも見ていたいのです。見せてくださいなあ。競技場を後にする時、記者に向かって、すみません、ご心配をおかけしました、なんて言っちゃって。満面はいつもの笑顔だった。「面白かった」とも言った。

1月28日(月)の朝日朝刊、天声人語より。

白日の下で行われるスポーツにも「魔物」の棲むところがある。よく知られるのは高校野球の甲子園だろう。独特の雰囲気が球児をのみ込む。魔に魅入られたようなエラーや乱調に、幾人もが涙を流してきた。マラソンでは、30キロ過ぎに棲むといわれる。「30キロの壁」という言葉もある。日曜にあった大阪国際女子マラソンで、魔物は福士加代子選手にとりついた。快調に先頭を走っていたが、別人のように失速した。足を運ぶのもままならず何度も倒れた。並外れた健脚を韋駄天と呼ぶ。仏法の守り神の名前だ。釈迦の遺骨を盗んだ鬼を追いかけて奪い返した俗説から、足の速い人の代名詞になった。福士選手はトラックでは名うての韋駄天だったが、初めて挑んだマラソンで魔物の洗礼に沈んだ。メキシコ五輪で銀メダルの君原健二さんによれば、30キロ過ぎての最終盤は「一歩一歩が血を吐く思い」だという。「だれがこんなむごいレースを考え出したのか」。憎しみながら走ったものだと、著書「マラソンの青春」で回想している。立ち止まる誘惑と格闘しながら、「この先の電柱まで、あそこの家まで」ともがく。その積み重ねで、君原さんは参加した35回すべてを完走した。「走りぬくこと」を大切にした名選手でもある。福士選手もまた、転んでも転んでも起き上がって、走りぬいた。優勝者より大きな拍手は、悔しかっただろう。だが前をめざす凄みを、見る者に教えてくれた。いつの日か魔物を敵討ちにする。その姿を見たいファンは少なくないはずだ。

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