2010年1月16日土曜日

あっと驚き、水天宮だった

20100114(木)、中央区日本橋にある某会社での打ち合わせのために、地下鉄半蔵門線の水天宮駅で14:30に不動産屋の大さんと造成設計屋の柳さんとで待ち合わせをした。

某会社は、昨年民事再生法による手続きに入り、保有資産の売却を進めていて、弊社では神奈川県のとある物件を建売用地にしたいと思って買い受け希望を伝えに行ったのです。

誰も信用してくれないのですが私には生来の几帳面なところがあって、不動産屋さんからネクタイをして来てくださいねとプレッシャーをかけられてたので、異常に神経質になっていたのでしょう、約束の時間より30分も早い目に着いた。

駅が水天宮なら、水天宮という神社がある筈だ、と待ち合わせ場所である地下の6番出口から地上に出て、うろちょろ周囲を見回すと、丁度道路の真向かいに水天宮さんがあった。

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時間に余裕があったこと、こんなデフレ不況で神にもすがりたい気持ちもあって、是非お祈りしてこようと向かった。四つ角には交番があって、その横には神社の境内に上がるエレベーターがあった。境内には、年の始まりだからか参拝者が多かった。ところが、参拝者をよく見ると、妊娠中の新婦を伴った新郎、若いカップル、宮参りなのか、産まれて少ししか経っていないと思われる赤ちゃんを抱いた若夫婦が目立って多いことに気付いた。

先ずは、社殿に向かって二拝二拍手一拝して、社員の健康、社業がなんとか立ち直れますようにと、全社員の顔、取引会社の担当者、お世話になっている金融機関の担当者、各ジャンルのサポーターの方々の顔顔を頭の中でグルグル巡らし、なんとかこの難局を乗り切りたい、その健闘振りを陰で支えてください、と祈願した。

お祈りをして水天宮の案内書でもあれば貰いたいと思って御札を扱っている処へ行った。そこで、案内書を手にして、私は始めて水天宮さんは、安産、子授けの神社であることを知ったのです。

へえ!!、ならば私の長女・実がこの6月に出産予定なのだ、いい塩梅だ!!、会社人としてのお祈りの他に、もう一つ長女の安産祈願をしようと、再び社殿の前で頭を垂れた。欲の深い参拝者だと、神さまはお思いになられたかもしれないが、山岡という男は、こんな奴なのです。お賽銭箱には少ない小銭しか投げ込めなかった。私に暫しのお時間をください、ここの地にやってきた仕事が上手くいったら、長女が目出度く出産したら、必ずもう一度お賽銭箱にもう少しのお金を準備して来ますから、それまではお待ちくださいな。

長女に水天宮さんに安産の祈願をしてきた、と電話すると長女・実はありがとうと感謝してくれた。長女は水天宮のことをよく知っていた。

造成設計屋さんが駅に着きましたと、私の携帯に電話をくれた。駅に戻りながら、水天宮にお参りしてきたことを彼に話すと、自分も17年前に娘が産まれるときに、ここまでお参りに来ましたと言っていた。有名な神社なんですよと教えてくれた。この神社のことを知らないのは、私だけだったようです。

仕事のことは、ちょっと、----。

ここで某会社の担当部長さんとは、縁がありそうなことばかりだったので、ここの会社を訪ねたことの目的は、必ず達成できるような予感がして、幸せな気分になったのです。

その「縁」というのはですねーーーーー。

先ずその部長さんの名前、苗字が私たちの仕事場がある地域の名称と同じだったことです。この苗字は地名から来ていましてネ、青森のどこかと福井の敦賀にある町の名前と同じでして、私は、敦賀出身なんですよ、と仰った。でも、一番有名なのは山岡さんの会社がある地域の名前ですけどネ。この部長さんの苗字は、--市、--港、--ベイブリッジとかで使われるーーの部分でした。

私が持ってきた弊社の会社案内をしげしげと眺めながら、御社はこの地図の処(保土ヶ谷区天王町)ですか、ときたもんだ。会社の位置に指を差していた。そうです、と応えると部長さんは実は私がこの会社にお世話になるまでは、このビジネスパークの中で働いていたのです、と。以前はビール瓶の工場だったのですよね。何でもご存知だった。そうなんです、弊社の今の事務所はそのビール瓶会社の試験場だったのです、と言うと驚かれた。ビール工場の試験場は、ビジネスパークとは道を隔てていたので、何かと便利だったようで壊さないで残されていたのです。

それから、自宅は町田の成瀬台なんですよ、と聞くと私以外の二人は町田を根城に仕事をしていて、ギョっと身を乗り出した。親近感が一気に湧いてきたようだ。造成設計屋は、上溝が自宅兼仕事場なのですと言うと、いや私は何とかゴルフ場の会員なので、一週間に一度は、北里大学病院の前を通って、上溝を通っているんですよ、ときた。北里大学病院の前には、弊社で運営しているホテルがあるんですよ、と言うと、我がホテルの近くにある古いホテルのことは見たことがある、と仰っていた。

部長に挨拶してその会社のビルを出るや、私は二人に、これは縁があるサカイにまとまります、確信したヨと言うと、ぜんざいを頬張っていた三人は、同時に頭(こうべ)を縦に振った。考えていることは三人とも同じだったのでしょう。

ジョナサン水天宮駅前店のぜんざい 1セット¥462を三人分、¥1386は楽しく美味かった。

 

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水天宮が発行しているオフィシャルガイドブック

『安産・子授かりの水天宮へようこそ』から、抜粋させていただいた。

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水天宮の由来

水天宮の発祥は、今から七百年前に、さかのぼります。平清盛の血をひく安徳天皇は、源氏の厳しい追及に京都から西へ西へと逃げていきました。しかし、ついに壇ノ浦(山口県下関市)の合戦で、源氏の軍船に取り囲まれ、祖母の二位の尼に抱かれ、母の建礼門院と共に波間に身を躍らせた。時に1185年、安徳天皇八歳の時のことでした。

お仕えしていた官女の按察使局(あぜちのつぼね)は、ひとり源氏の追っ手を逃れ、九州は筑後川に辿り着きました。局も壇ノ浦で共に入水しようとしたのですが、二位の尼に止められ、お前は生きて、我らの霊を慰めよ、との命を受けたのでした。

局は川のほとりに小さな祠を建て、安徳天皇とその一族の霊を慰める日々を送りました。これが今に続く水天宮の起源と伝えられています。

その後、有馬忠頼公により、現在の久留米市瀬下町に七千坪の敷地が寄進され、豪壮な社殿が造られました。

安徳天皇は御年わずか八歳で、犠牲となって海中に沈まれましたが、万民を救う尊い神慮によるとされ、大きな信仰を集めました。

 

今も昔も、「情けありまの水天宮」

江戸時代、大名には参勤交代が義務づけられていました。藩主は、領地を離れ、江戸詰めをしなくてはなりません。その間は、水天宮にお参りができないので、第九代頼徳公は、久留米から分霊をして、江戸屋敷内(現在の港区にあった)に、水天宮を祀りました。1818〈文政元)年、東京水天宮のはじまりです。

本来、お殿様の屋敷神として祀られたもので、一般の人がお参りすることができなかったのですが、江戸っ子たちの信仰は次第に高まり、塀越しに賽銭を投げ込む人が後を絶ちませんでした。遂に毎月五日に限り屋敷が開放され、参拝が許されました。

人々は、「情け深い」ことを感謝する際に、有馬家と水天宮を洒落て、「情けありまの水天宮」と口癖のように言いました。「恐れ入りやの鬼子母神」という言葉と共に、江戸の一種の流行語だったのです。

1871(明治4)年、水天宮は屋敷の移転と共に赤坂に移り、さらに翌年、現在の日本橋蛎殻町に移転しました。

日本橋蛎殻町界隈は、人影もまばらな寂しい場所でしたが、水天宮が移ると共に、商店が増え始め、大変な賑わいを見せるようになりました。

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