今日は、朝から「農業」だ。茶農家のお助けマンだ。一宿一飯の恩義に17貫の老体に鞭打って、働いて返さなくっちゃならん。甥の嫁は、早速私に野良仕事用の靴を用意してくれた。中国人が日常的に履いているような靴だった。働け、と言う意味だと理解した。
朝めしをご馳走になってから、甥・セと甥の嫁・ヤ、私と竹さんの4人は、茶畑に行って、茶の新芽が少し出ているのを、隙間のある黒いビニールで被せる仕事をした。このようにしてとれる茶のことを、一般的には「かぶせ茶」と言われている。玉露の一種なのです。
本格的な玉露と言えば、畑に並ぶ茶の木の全部を、棚を作ってその棚の上に菰(こも)といって、稲の藁を編んだものを被(かぶ)せるのです。最初は何も被せない状態で芽を少し伸ばし、それから菰を掛けて、横にもこの菰を張る。暫らくして収穫の時期を見計らって、この粗い菰の上に、さらに藁をばら撒いて、密閉度を高めるのです。そうすると、菰の中は薄暗く日射を完全に断つのです。日射を遮ることで、茶の甘味を呼ぶそうです。この菰を被せていく手順には、当然のことながらベストの決まりはあるのですが、一度にはできないので、芽の出具合から、あっちの畑、こっちの畑と張っていくようです。
この黒いビニールを被せる仕事は甥と甥の嫁の仕事になっているようだ。丘陵地に茶畑があるので、移動するだけでも足腰が疲れる。甥の嫁は、慢性的な腰痛だ。丘陵地は土壌の水はけがいいので、茶畑にはいいそうだが、嫁にとってはハードだ。彼女は、日焼けや虫よけのために頬っ被りをしていた。蛇が私の歩いている農道を横切った。私は飛び上がって逃げた。世の中で、借金取り以外は怖いものがないのですが、唯一蛇だけは苦手なのです。甥が予定していた範囲の仕事は、割と早く終わったので、もう少しやろうよと甥に言っても、まだ茶の芽が被せる状態ではない、と言う。少しの休憩。農道に仰向けになって寝転んだ。隣の雑木林は、風に揺れている。小さな雲が、大きな青空の中に、ぽつんと浮かんでいる。
ところで、この開墾畑はどうしたんだっけ?と甥に質問をした。私の子供の頃は、この開墾畑はなかったのです。この開墾畑は、40年前におじいちゃん(私の父)が12人ほどで組合を作って始めたのや、と甥。南地区の森林組合の入会地を開墾したのです。40年前と言えば、私が大学を卒業した頃だ。当初、計画段階では30人ほどの参加希望者がいたのですが、最終的に参加したのは12人だった。参加を取りやめた人からは、今更開墾して茶を作るなんて、時代の流れを知らない連中だと揶揄されたらしい。
そして、ここに費やした工事費や何やかやの借金は、20年前にオヤジ(私の兄)の時代に終わらせた、と甥。開墾畑の茶園は充分の収穫をもたらし、今や茶の木は老木化して、もう少し経つと老木を切り倒して代替ええをしなくてはならない時期にきているんです、その時は大変や、と甥。
その茶の木の代替えは甥がやることになる。この話をしていて歴史を思った。私の父が始めて、その借金は兄が最終的に支払い終え、その間は借金を払いながら収穫し、借金が終わって暫くした頃には茶の木の世代交代。このようにして産物を生みながら歴史は重みを増していく。そのことこそが、山岡家の財産になったのだと思った。
私の父は、ここの開墾畑だけでなく、いくつも畑や田を買い入れていた。昭和5年から15年ぐらいにかけてだろう。資金を借りたのは、何とか振興銀行だったり、殖産何とか銀行だったりで今はそんな金融機関はない。農地の売買を活発化するための国策で用意された金融機関だったのだろう。戦争が激化していくなかで、食料の自給率を高く維持するために、耕作もしない荒地を少なくしたいという国の施策でもあったのではと思う。父が死んで相続登記をするために権利書などを整理していたら、金融機関からの借り入れの書類がでてきた。父は頑張ったのだ。
兄も、実家の敷地に隣接している土地を買った。父も兄も農業という事業に意欲的だったのだ。
組合員の中から離作する人が出てきて、甥と兄はその離作した人が手放した茶園の管理から収穫を任されて、最初は全体の12分の1の広さだったのですが、今や4分の1くらいの面積の茶園の面倒をみている。隣の茶園が荒れ放題になると、虫や病気が発生した時など、隣接の茶園の持ち主は非常に困るのは当然で、営農を放棄する人は必ず隣接の人に相談を持ちかけるのです。そんな関係で、兄と甥が管理する茶園はどんどん増えてきた。
そういう環境の中なのに、今度は甥たちが次のチャレンジに入っていた。新たな開墾畑の造成に着手したのです。宇治寄りのくつわ池の近くだ。父が参加して作った開墾よりも、3倍以上の広さだ。何人かで組合を作って、隣町の森林組合の入会地を借りてそこの茶畑を、今(201005)、ほぼ造成が終わりかけていた。
隣町の森林組合の入会地なので、地代が高く求められて弱ったわ。排水の処理も当初町の土木課との打ち合わせをした通りにいかなくて、工事費が突出した分は、現金を用意できないので自分等で働いて処理をしたのです。工事費は国,京都府、宇治田原町からの補助で7~8割をまかなえるのですが、残りを組合員で均等に負担するのですが、やはり1世帯でも過分の負担になるらしい。説明してくれる甥の言葉はどこまでも頼もしい。
甥は仲間に恵まれているようだ。性格が温厚で人に好かれるのだろうが、何よりも、何よりもお茶に対する取り組みが真剣だ。その真剣さが仲間を呼び集めるのだろう。茶づくりの研修を重ね、たゆまぬ興味や研鑽をし続けることが、気分の張りになっているのだろう。
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思いの外、茶の木に黒いビニールを被せる仕事が早く終わったので、午後は猪(いのしし)や鹿が作物を荒らしに来ないように、柵を作ってそれに電線を張り巡らす仕事をすることになった。柵に、電線を3段に一定の間隔で張るのです。電線が柵に触れるところは碍子(がいし)で離す。動物がその電線に触れるとビビっと電気が流れてそのショックで猪や鹿は逃げていく、その仕掛けをする。
ところで、上の写真は、その工事を始めた最初の現場なのですが、この場所というのが、私の田舎では比較的賑やかな所なのです。宇治から私の田舎に入ってくるメインの道路の側、50メートルと離れていない所から、このような電気の柵が作られているのです。私がこの田舎で暮らしていた40年前までは、考えられないことだった。猪や鹿がこんな住宅街にまで近づいてきていることに驚かされた。40年前にもそのような被害はあったことはあったのですが、人里離れた山の側ならば、しょうがないと観念してこのような柵や、定時に爆音を起こさせる装置で、闘っていたことはあったが、このような住宅街至近でのことはなかった。
府道から外れた、農道といっても立派なアスファルト道路を、夜、鹿や猪が歩いていることになる。田の所有者がそれぞれに自分の田を囲っているのですが、もっと効率よく大外回りを共同で柵を作るか、夜、見張りをたてるかした方がいいのではと思ったのですが、他所モンがいい加減なことを言うものではないと、口にチャックした。
現実に我等が宇治田原を後にするとき、高速道路の渋滞を避けたいと思って深夜1時に実家を出て横浜に向かったのですが、狸の陶器で有名な信楽で、1時20分頃新名神高速道路のインターに近づいた所で、鹿が山の裾野を歩いていたのを見つけた。助手席の竹さんは、別の場所でも2頭の鹿を見つけた。このようなことは、私が田舎に住んでいた時はなかった。異常な繁殖で、増えているようだ。
この事態には行政の出番だと思う。 宇治田原町の町長も、出納長も俺の後輩なんだけどなあ。教育長は中学校、高校の同期なんだけどなあ。どうにかせ~とか、、、
場所を猪の口に移動した。猪の口という地名は、害獣、猪君と関係あるのか。仕事の内容は先ほどと同じだ。
仕事に取り掛かる前に、甥の奥さんが作ってくれたお握りで昼飯をとった。久しぶりだ、山に囲まれた畑で地面に尻をどっぷり下ろして、青空を眺めた。新緑の樹木がすぐそこに大いに迫っていて、食欲がそそる。畑に背中全体で寝っ転がった。土の匂いがする。懐かしい匂いだ。五月の風は爽やかだ。鳥の鳴き声がすぐ近くに聞こえる。小川の流れる水音が気持ちいい。うとうとしていたら、甥っこが作業開始を告げた。
この茶畑は以前は水田だった。この田を茶畑にするときはオヤジ(私の兄)は反対はしなかったけれど、渋い顔をしたと言っていた。そりゃそうだよ、今から約50年前、1961年の9月16日に第二室戸台風が紀伊半島から関西地方を襲った。この台風は室戸岬に上陸して関西地方に大被害をもたらした。死者200名。この台風で、この水田の水源になっている池の土手が決壊して、池の水が、V字型の谷を大量の土砂を下流に流した。川も氾濫、その土砂は周辺の水田に流れ込んだのです。
我が家の水田は比較的上流の方にあったので、流れ込んできたのは大きな岩や、大木で量も多かったのです。この荒れ果てた土地を、父は母の協力のもとに復元したのです。その努力は相当なものだったと思う。父も若かったのだ。3反ほどのうち1反は全く瓦礫だけの荒地に姿を変えてしまったのです。何年かかったのか、私は分らないのですが、兄がその復元の仕事を手伝った記憶があるという。兄は長兄なので、その辺りから父の影響を受け、百姓として、山岡家の田畑を守ろうと思い始めたのだろうか。
この水田のすぐ上の方は全部、復元されずに長いこと荒地のままだった。大きな岩や、大木の大きな根が転がっていた。我が家の田は、復元した水田の中では一番荒れていたことになる。父に、この田も台風の後はこんなんだったんだよと上の方を指を差して教えてもらった。その荒地で、私と祖母は蕨(ワラビ)やゼンマイ、蕗(フキ)を採った思い出がある。
父と母、兄がそんなに苦労して復元した水田を、今度は甥が茶畑に変えてしまったのだ。甥は、父が目に入れても痛くないほど可愛いがった孫だ、兄にとっては掛け替えのない重要な後継者だ。深さ1メートルほど掘り起こして、土を掻き雑ぜて整地、そこに茶の若木を植えたのです。説明する語調に、覚悟が感じられた。兄も自分の息子がこんなに農業に興味をもってくれて、特に茶に対する意欲は並々ならぬものがあって、申し出は受けざるを得なかったのだろう。兄の複雑な気持ちが痛いように分る。兄は亡くなった父の思いのことも考えたことだろう。
竹さんは作業中です。竹さんは電鉄の電気工事を主に扱っている会社の社員なんですが、この種の仕事は初めてです、と言いながら真剣そのものでした。
これが電源です。
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