今日は水曜日、弊社の営業部は全員休日だ。できるものなら、長閑に過ごしたいものだ。
09:00から、相模原の北里大学病院前で運営しているバジェットホテル=パラデイス イン 相模原の敷地内のサツキの生垣の間に生えている雑草取りをした。気分転換としては、最高の方法だ。
休日だからこそ、時間を気にしないでのんびり作業ができる。休日と言っても、何かをしないと気がすまないのです。腰を屈(かが)めて、下を向いて、雑草を根こそぎ引き抜くのですが、少し作業をしただけでも、すぐに腰が痛くなる。腰を伸ばして空を仰ぎ、汗を拭(ぬぐ)う、それの繰り返しだ。
私の生家は農家だ。今でこそ農業は機械化が進んでいるけれど、私が小学校に入る前までは野良仕事の何でもかんでもが手仕事だった。田植え、田畑の除草、種や肥料を撒いて、稲を刈って日干しをして、それ以外の肉体労働も過酷だったろう。傾斜地の茶畑の世話から収穫、これも大変な重労働だったろう、と偲ばれる。
生垣の根元からは、むうっとする熱気を帯びた空気が、時々頬を撫ぜる。樹木や雑草の生気か?呼吸熱なのだろう、生ぬるい空気の塊が移動しているようだ。雑草やサツキも健気(けなげ)に生きている。建物の陰になっている所は、地面が湿っぽい。この部分にはシダ系の草が多く、生えている草の種類は少なく、シダ系以外のどの草もひ弱だ。地表からは窺(うかが)い知れないが、地中の生物や微生物も、陽の射している部分と陰の部分では、違うのだろうか。ミミズは湿った地面の方が好きなんだろうな。
徒然(つれづれ)なるままに、ミミズに係わる四方山事でも書いてみますか。のんびりした休日でありたいものです。クッキーと紅茶でもあれば、尚更寛(くつろ)げるのに、周りには誰も居ない、何もない。パラディス イン 相模原のミミズは実にのんびりしていました。羨ましいぐらいに。
子供の頃、ミミズにオシッコをかけるとチンチンが腫れるよ、と言われたことを思い出した。これは、畑の土に養分をもたらしてくれるミミズに、オシッコをかけるようなことをしてはイカンということだったのだろう。父は、畑でミミズを見つけると、必ず私に言ったものです。
生家の田んぼに引き込まれていた用水路の上流にため池があった。池と言えるほど十分広いものだった。用水路でも、田螺(タニシ)、泥鰌(ドジョウ)、蜆(シジミ)が取れた。たまには鮒も泳いでいた。そのため池に、私は従姉弟に連れられて鮒つりによく行った。その時の釣りの餌が、ミミズだった。野菜の屑の捨ててあるところとか、牛の糞や稲の藁などの腐ったところで大小いろんなミミズを捕まえてマッチ箱に詰めた。そのミミズを釣り針に引っ掛けるのが難しかった。
毎朝、05:00から二匹の犬と散歩を楽しんでいるのですが、ミニチュア・ピーシャの方が道路に干からびたミミズを見つけてはしゃがみこみ、その干からびたミミズに自分の首の辺りをこすりつけるのです。恰(あたか)も、女性が首に香水を吹き付けるように。この謎は、未解決のままです。
今から30年ほど前、私の次兄が誰に唆(そそのか)されたのか、長兄から借りた畑でミミズの養殖をしたことがあった。この次兄は真面目一方の立派な人で?思いつめたら誰もが仰天するほどのことを、いとも平気にやり遂げるという一途(いちず)さは、他の兄弟にはない天賦の恵みを一人占めしていた。サラリーマンだったのですが、休日を利用して一攫千金の夢を見たようです。ミミズの卵か、幼虫を買って成育させ、成虫になったら卵か幼虫を買ったところに売ることになっていたのです。売値も決まっていた。ところが、2年経ち、3年経ちミミズは立派に成育したものの、買ってくれる会社は倒産して、そのままのチョン切りになったのです。いったい、成長したミミズを何にすることになっていたのだろうか、この話はいつの間にか親族間では禁句になった。30年前、幾らほど投資したのだろうか。
引き抜いた草はそのままにして、陽に晒しておいた。1週間もすれば草の水っ気はすっかり蒸発して嵩(かさ)が減って、処理するのに都合がいいのだ。田舎育ちの知恵だ。この処理はホテルのスタッフに頼んできた。
11:30。自宅に戻ってシャワーをして着替えた。三女が作ってくれたラーメンを食って出勤。
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17:20。孫・晴を保育園に迎えに行った。孫は、私が迎えに行くと大層喜んでくれるので、此の頃水曜日のお迎えは、ジジイである私の仕事になった。サッカーで遊んでくれるのが嬉しいらしい。私にとっても、週に一度の30分ばかりのサッカーは楽しい。体も嬉しいようなのです。
公園に着いてジャンケンをした。勝った方がシュートをして、負けた方がキーパー役、それを交互に交代するのです。キーパーの背にはコンクリートの壁があり、適当な間隔にある樹木がゴールポストだ。
ジャンケンに勝った私はシュート側だ。ボールはいつものように柔らかくない、しっかりと空気が詰まっていて、子どもにはちょっと硬めかもしれないが、私には丁度の硬さだった。一発目、右からの20メートルのシュートは壁に強く当たって戻ってきた。孫は、ボールの強さに目を丸くして驚いた。2発目、左のキックも強烈に壁に当たって跳ね返ってきた。孫は、ジジイ、強過ぎるよと、言った。今日、私はボールの感触が異常にいいことに有頂天になっていた。身も心も軽い。浮かれていた。
こんなにむきになって、ボールを蹴ったのはこの20年間では、一度もなかった。軽く孫と蹴り合うことはあっても、今日はどうかしている。体が自然に動くのです。
その次がいけなかった。壁から戻ってきたボールは、適当な高さで弾んで戻ってきた。ここで、やってしまったのだ。ボールは左のボレーキックにはピッタリの高さと強さ、絶好球だった。地面から1メートルほどの腰の高さだ。軸足の膝を少し曲げて弾力を保ち、上体を右に倒し、左足を横から幾分下に抑え込むように、足の甲にぴったりボールを受け、フルスイングで振り切った。距離は25メートル、イメージ通りのキックだった。
ボールを蹴った瞬間に、蹴り足の脹脛(ふくらはぎ)の筋肉なのか腱なのかバリっと裂ける感覚があった。蹴り足に地面に着けないほどの激痛が走った。ボールは理想的な弾道でコンクリートに激突した。
なんちゅうことだ。62歳がむきになって、体の老化も省みず、よくもそこまで力強く蹴れたものだと喜びながらも、その喜びの代償は、大変な痛手を被ることになった。
それにしても、よく蹴れたと嬉しく思っている。痛い足を引きずりながら、芋虫状態で、それでも孫との遊びは最後まで付き合った。孫は、不具の私をかばってよく動いた。遠くに飛び去ったボールも嬉々として追いかけた。
18:00 帰宅した。女房や子ども達に笑われた。
この出来事を本気で悔やんだのは、今週末、孫の幼稚園の運動会で、孫の父親とジジイの私とで障害物競走で競い合う約束をしていたことを思い出した時だった。昨年は負けたのです。今年こそ雪辱を晴らしておかないと、これからの私の老後に悪影響が出そうだ、と懸念した。そのうち、絶望的に負けるのだろうが。でも、まだ若い奴等にナメラレてはたまらんのだ。
脹脛(ふくらはぎ)に経皮吸収型鎮痛消炎剤?入りの湿布をぐるぐる巻きにして寝ました。痛みや腫れを抑える有効成分(フエルビナク)を含有しています、と説明書が添えられていました。
休日は長閑でのんびりしたいものです。
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