どうして俺たちは、こんなにせっかちなんだろう?
先日の日曜、月曜で九州に行ってきた。取引していただいている銀行の紹介で知り合った人が、九州のホテル用地を紹介してくれたので、現地調査のため急遽九州行きが決まった。一度は火曜と定休日の水曜で行こう、と決めたのですが、いや火曜は早朝会議をしなくちゃいかんじゃないの、水曜だって打ち合わせが詰まっているんだ、母の体の具合が余りよくないんだと、ならば、ぐじゃぐジャ言わずに明後日に行こう、と航空券の予約をした。行こうと決めたら、一刻も早く行きたがる面々なのです。3棟目のホテルを手がけることを、誰もが望んでいるのだろう。
初日(日曜日)は、10:30羽田発。北九州空港に昼到着。レンターカーを借りる。福岡県京都郡苅田町の物件を見る。苅田食堂で焼き魚に、飯、味噌汁を15分程で食って、本格的調査のため車で移動を始める。北九州市八幡西区陣原で2物件、黒崎駅前、大分市高松。18:30博多のホテルにチェックイン。地元の不動産屋とミーティング。近所の居酒屋で焼酎ともつ鍋。就寝。
二日目(月曜日)は、5時に起床して、ブラブラと博多の市街地を探索。博多のあふれる活力に驚嘆。横浜もパワーでは負けました、脱帽です。ホテルを7時にチェックアウト。鳥栖市本鳥栖、熊本市呉服町と南熊本、長崎市網場、佐世保市戸尾町。長崎港に浮かぶいくつもの軍用船が異様だった。昼はラーメン。途中、強烈なにわか雨におそわれた。九州の雨はさすがに気が荒く、フロントガラスを殴りつけるように、雨粒がぶち当たる。まるで、小倉(おぐら)太鼓の乱れ打ちってとこか。団塊の世代の伊藤オジサンは品のいい元ホテルマン。ところがじゃ、今はダンプの運転手さながら、豪雨をもろともせず、アクセルいっぱいに踏んで走る。オジサンはいつも頑張るのです。午後3時に長崎空港に到着。予定よりも早く着いたので、私だけキャンセル待ちで席を確保、二人を残して一路羽田空港へ。
初日は7時間走り放し、二日目は8時間走り放し。走行距離は述べ800キロ。ハウステンボスの一部を覗き見、湯布院の遠景を見、熊本城を下から眺め、平戸、別府温泉、水前寺公園は道路標識にて確認。島原も遠くに見えた。
一行は、私・山岡と取締役の小見さん、我が社のホテル事業展開のコンサルトタント・伊藤さんの3名です。3人は、学校を卒業して同じ会社に同期で入社した元同僚同士だ。私は、今月24日で59歳、小見さん、伊藤さんは58歳。輝かしい日本繁栄の功労者である団塊の世代の後半部隊だ。私が通った高校は1学年15クラスあって、全校で2500人はいた。母校の学校区には、当時母校がたった1校だったのが、今では公立、私立合わせると13校以上がある。現在は少子化が進み、我が母校はかって美人と天才が多数輩出した名(迷)門校?であったのに、3年後には廃校になると風の便り。寂しい気がします。この近辺で最初に廃校になるということは、それほど限りなく存在感の薄い高校だったのだろう。美人はいたけれど、天才なんか見たことないわ。高校を卒業して、ドカタをして、大学に入って、社会人になった。ワイワイガヤガヤ、どこにも人がいっぱい居て、喧嘩したり、励まし合ったり、競争したり、面白かった。我々の仕事仲間にも、引退とか定年退職だとか言って、一抜け、二抜けしていく。
そんな年齢にさしかかっているこの3人も、自身の立ち位置しだいでは、世間並みに歩調を合わせて、そろそろ俺たちも引退の時期か、と思い始めたかも知れない。ところがじゃ、この3人には3人の事情があって、ここにきて、この年齢になって、どうしても頑張らなくてはならないのです。体力は下り坂、根気も希薄に、でも精神の高揚は衰えない。だから、急がなくてはならないのです。事情があるのです。
私の場合は、
25年前から、経営に携わってきた。いい時代は最初の5~6年だけで、バブルがはじけて、命がいくつあっても足りないぐらい、塗炭の苦しみを味わってきた。ズルをして儲けた奴が苦しむのはいい、だけどきちんと商品を作って、きちんとお客さんにお渡しをしていた私にも、不況風は容赦なく吹いた。吹き飛ばされないように、必死で頑張ってきた。中村専務は、この激流に流されそうになっていたときに、颯爽と登場した。ローリング・ストーン、転げだした石は勢いをまして、ますます転がる。私は希望をすっかり失っていた。でも、凄いんです、我が社のスタッフの底力は。資金繰りを、聞いてはいるが意に介さず、はたまた、えい、どうにでもなれ、と腹をくくってくれていたのか。資金繰りは、常にリアルタイムで開示していた。中村専務の熱のこもった説明に理解を示してくれた者たちは、俄然踏ん張ってくれた。理解できなかった者は、去った。そして、地獄を脱出して、今、上場しよう、というところまでようやくたどり着いた。ならば、やってやろうやないか、徹底的に、とスタッフに発破をかけている最中です。時間がないのです。きちんと道筋をつけて、実力を蓄えて絶対つぶれない、将来にチャレンジし続ける会社に早くしたいのです。よって、急いでいるのです。
小見さんの場合は、
某百貨店系の会社で不動産を扱う会社の取締役だった。小見さんとその一派は、私が大好きな人たちで、その不動産会社を小さな会社から、上場を視野に入れるぐらいにまで成長させた。ヤリテ集団だった。私の会社は、小見さんの会社とは親しくさせていただいた。小見さんは、その集団のなかでも、企画に営業に才腕を振るっていた。私が地獄を彷徨っているうちに、小見さんの会社も親会社が可笑しくなって清算することになった。自ずから、子会社である小見さんの会社も連動して清算される羽目になったのです。役員だったので責任をとるかたちで、退社した。それからは、健康食品関係のテレビコマーシャルのフイルムを作ったり、放映したりする会社の代表取締役をやっていた。薬事法の関係で、その職は辞した。そして、我が社に入社してくれた。若かりし頃、私は小見さんに、「お前が社長でも、俺が社長でも、どっちでもええで」と言ったような気がするし、言ってないような気がする、そんな間柄なのです。そして、私同様、急いでいるのです。限られた期間内に、私の会社を私と共に、キチンとしたいと思ってくれているのです。小見さんの仕事は広範囲に重要な内容のものばかりです。血圧が高いのが気になるのですが、好きなタバコは頑として止めない。そんな状況の中で、いい結果を出すには、急ぐしかないのです。
伊藤さんの場合は、
私と小見さんと伊藤が揃って入社した会社で、伊藤さんはホテルを専門に担当していた。当時、その会社は日本の各地で、物凄い勢いでホテルをオープンさせていた。伊藤さんは、日光、札幌、軽井沢、箱根、伊豆の各ホテルのオープンを手がけた。私は、私の今の会社の親会社で営業部長をしていた。その業務のなかで湘南にホテルを建てる企画が発生し、開発行為を役所との折衝を経て、最終の設計図書が出来上がった頃、ホテルの完成後、誰が支配人で運営するのか、という問題がもちあがった。暢気なもんだぜオーナーは、いやオーナー代行は。私は、このオーナー代行のことをアホか、と思った。私と青島さん(彼のことは、いつかこってりと話します)、オーナー代行の3人で、伊藤さんを口説きに行った。「是非、今、私たちが企画を進めているホテルの支配人になってください」と。私は伊藤さんに、「もう大きな会社はええやろう、おもろないやろう。ちっちゃなプチホテルで楽しくやった方がええぜ」と。伊藤さんはこのとき、奇しくも小見さんからも別の転職の勧めを受けていた。「日本の大きな会社いうても、大したことないぜ。世界のビッグなホテルで働くのもええよ」と。このホテルはインターコンチなんとか、という会社でした。結果、私の方に軍パイがあがり、湘南のプチホテルの支配人に就任してくれた。が、アホなオーナー代行の経営的能力の欠如で、営業開始後15年にしてあっけなく廃業。その後の処理について、伊藤さんはいろいろと学習した。不動産の証券化までも。そんなこんなで、伊藤さんも、ここらで一発かまさないとやりきれないのではないだろうか、と私は推察し、彼を我が社のホテル事業展開のために委嘱した。燃えている。ますます燃えている。我が社をなんとかしてやりたい、と思っていてくれる。よって、伊藤さんも、いい結果を出そうと急いでいるのです。
急いでいる奴たちの、急いだ九州での現地調査の旅でした。
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