今日(080913土)の朝日新聞の朝刊に沢田研二(60)の記事が出ていた。
その内容は、彼の憲法に込めた思いを歌にして、新作アルバムを作ったということだった。なによ、あのジュリーが、何故憲法なのかヨ、と突然の記事の内容に、読者は驚いたのではないかと思ったので、この稿を起すことにした。彼の思いが、私にも分かるような気がしたのです。
ジュリーは60歳の還暦を向かえて、今まで言いたかったのに、つい言えなかったことを、えい!!言っちゃえと、その気になったようだ。かく言う、私も後10日程で、9月24日に還暦を迎えるのです。そんな同世代,いや同じ年令で、同じ京都という環境で育った者同士の、何か共通点がありそうなので、それを探(さぐ)ってみた。
60歳をむかえた我々は、団塊の世代の中心部にあるのです。終戦直後には日本国憲法ができて、その新しい価値観の大変化に戸惑う多くの大人たちがいた。戦前、戦中派の人々だ。その時の世相を表す数多の文化や芸術や著作物が残されている。終戦後間もなく生まれた私達は、父や母や、先輩達が悩んだり、苦しんだりして学習した憲法のことを、私達に分かりやすく教えてくれた。その教え方は、自分達の実体験を下敷きにしているので、教えて貰った私達には、分かりやすかった。私達は素直に新しい価値観の世界を受け入れることができた。それ故に、新しい価値観が傷つけられたり、疎(おろそ)かな扱いを受けたりしたとき、そのときに示す純心な私達の反応は、激しいものにならざるを得ない。
終戦を挟んでその前後、先輩たちは自立して生きるために、過酷な苦労をされたであろうことは容易に察せられる。この人たちから私達は学習させていただいたのだ。終戦の10年後に、小学校に通いだしたのです。この先輩たちが、私達の周囲に、学校に職場に近所に、親として、友人のオヤジとして、先生としていて、時には自戒を込めながらも、嫌だった戦争の話や、二度と戦争は起してはならないぞ、と教えてくれたのでした。合わせて、日本国憲法のことも。中学では、さらに学んだ。
そして、私は高校生になった。京都府立城南高校だ。美女は生まれても、天才は生まれたことのない、希少な学校だった。そこで、この本題の沢田研二のことに触れていきたい。彼は、中学校は岡崎中学校、高校は京都府立鴨沂(おうき)高校の卒業だ。この高校の前身は1872年(明治5年)に日本で最初の女学校として創立した「新英学校および女紅場」らしい。らしい、と言うのはインターネットによる情報を利用させてもっらているからだ。なかなかの名門校だった。ちなみに、義母の出身学校は堀川女学校だ。これは、現在の京都市立堀川高校です。京都の人でないかぎり、なかなか鴨沂をお~きとは読めない。現在の活躍状況はよく知らないが、私が京都に居た頃は、水球が全国的に強い学校として有名だった。
私達が中学生だった時は1960年。60年安保闘争があった。国会議事堂の周辺には何万かの労働者や学生がデモった。岸信介と弟の佐藤栄作が、どうしたらええもんじゃろうか、とデモを見ながら思案していたそうだ。そのデモと機動隊との衝突で、東大生の樺 美智子さんが、亡くなった。私は子供心に、何故、何のために、あんなことをしているのだろうか、と不思議だった。装備の整った機動隊に対して、無防備でよくもあんなに激しい戦いを挑めるものだなあ、と感心させられた。何かが、あるのだろう。新聞に載った写真を見つめていたら、動悸が荒くなったのは、なぜだったのだろう。アンポハンタイ、安保反対、とリズミカルに叫び、4,5人で掃除用の箒を横にして腰の辺りで両手でしっかり握り、教室や廊下をジグザグデモを繰り返したことを思い出す。
そして私と沢田研二(以後は、ジュリーにした)が過ごした時代の、京都事情を書き記そう。我校のキャンバスは、どうだったかというと、いやジュリーの通っていた学校だってそうだった筈だ。当時、京都府知事は蜷川虎三で、共産党と社会党の支持か推薦だった。その影響もあってか先生たちは、大半が共産党か社会党の支持者だった。メーデーの日は、ことさら先生たちの表情は活気に溢れ、メーデー会場に向かう準備を生き生きとこなしていた。どの先生も、赤い鉢巻を額に巻きつけていた。水を得た魚?状態だった。特に元気だった岡田先生が、チラシを私達に配る。校庭にある国旗や校旗を掲揚するポールに、その日は赤旗が揺れる。校舎の壁にはメーデーを成功させるための標語が書かれた垂れ幕が下がる。メーデー会場に向かうためのバスが横付けされると、生徒たちは一斉に集まって、先生たちをガンバレーと励ました。先生たちの乗ったバスは、大勢の生徒に見送られて行った。ただのヤジ馬も多かったが。でも一部の教室だけは、校長と教頭と、他数人の先生だけは授業を行っていたが、ほとんどの授業は名目、自習だった。そのことをいいことに遊んだ。これらは我が母校、城南高校のことだけれども、きっと鴨沂高校も似たり寄ったりだったと推察できる。
ところでジュリーって奴の過去から今までを検証させていただきましょう。彼の今までの生きざまを、詳細に検証させてもらえば、今、彼がなぜ、日本国憲法なのかよ、という質問には明答が得られるだろう。
ジュリーは高校生の頃、京都の四条河原町にあったダンス喫茶「田園」でアルバイトをしていた。そこで岸部一徳らのグループと知り合って、歌を歌う世界の一歩を踏み出したようだ。その後ロック歌手の内田裕也に認められ、東京の渡辺プロダクションと契約して、その後タイガースというグループ名で一世を風靡した。このタイガースというグループ名は、すぎやまこういちが、彼らは関西から来たんだから、ということで名付けられたそうだ。日本で初めての長髪の男性アイドルとして、もてはやされた。私には、こんな奴等のカッコウ好さが分からなかった。女の級友たちが彼等に浮かれているのが、腹立たしかった。長髪は不良者だと、大半の大人はそう思っていた。同時期に、ビートルズという英国のグループが、世界の若者の心をつかんで大活躍中だった。そんな影響もあってか、日本でもエンターテーナーとしてのいくつかのグループサウンドは、テレビにラジオ、ショーで大受けしていた。私も、彼等の多くの歌を、口ずさんだ。
後に、ジュリーたちは本格的なロックグループを企画したそうだが、ロックは日本では反体制を含むジャンルとしてみなされていたが、ジュリーは本気だった、と聞く。それは何に対して反体制なのかと言うと、まさしく育った時期と環境が同じだった私には分かるような気がしたので、この稿を気を強くして進めているのです。
幼い頃、小学校、中学校で新しい日本国憲法のことを、機会がある度に話は聞かされた。その度に、心が清々した。それらは、国民主権、天皇は日本民族の象徴、戦争放棄、基本的人権の尊重、信仰の自由、表現の自由、男女平等だった。心がわくわくした。当時、子供だった私達には、国という概念はなかなか理解しにくかったが、俺達の国はなかなかいいもんだ、素晴らしいんだ、と思った。
そして、蜷川虎三を支持する社会党や共産党が、機会あるごとに自衛隊は日本国憲法9条に反して憲法違反だということを、声を大にして叫ぶと、私も同じように心のなかで叫んでいた。それから、核を持つな、作るな、持ち込むな、この標語も身についてしまった。長崎県の佐世保に原子力潜水艦が着岸した際には、核兵器が装備されているのではないのか、その核による海の汚染の可能性があるのではないか、そんなことに疑問をもつ人たちが、日本全国から多数が参加した。そんな危険なものが、日本の国に自由に出入りされるようじゃ、堪(たま)ったものじゃないか、と思った。
革新知事は、京都だけではなく、大阪にも東京には福岡にも生まれた。東京都知事は、美濃部亮吉氏だった。私は、革新知事さんの言ううことだけには聞き耳を持った。
それから次々に世界をかき乱す事件が相次いだ。私の身近で起こった一番大きな出来事は、ベトナム戦争だった。このベトナム戦争から、私はいろんなことを学んだ。学園紛争、全学連、私も革マルのヘルメットをかぶってデモった。社会人になった。そうこうしていたら、湾岸戦争が始まった。それからテロだ。9・11、アフガン、イラク戦争へと進んだ。その一つ一つの出来事から、子供から青年、オジサンへ、節、節を刻んで成長したようだ。ジュリーもまた、舞台で、マイクを手にとりながら、私と同じように影響を受けていたことだろう。ベトナム戦争に反対する人々の行動や多くの著作物から、整理して学びとったことが、その後の私の、政治を考える時の原理原則になった。言わば心棒になったのです。
音楽の分からない私だからか、馴染めないショーや舞台で活躍し続けるジュリーとは、肌が合わない変な奴だと思い続けてきたのだが、やっぱり、そういう変な奴ではなくて、私たちが普通に考える仲間だったのだと、安心した。
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そんなこんなで、この稿が進まなくなった、とイヤ気が差し出したたころ、びっくり記事が、朝日夕刊の一面に躍り出た。
米原子力空母が横須賀港に入港したというニュースだ。今まで、原子力潜水艦は度々寄港した。その度に寄港反対のデモにさらされた。米原子力空母ジョージ・ワシントンが25日午前、横須賀港に入港し、米海軍横須賀基地に配備された。1973年に米軍が日本に空母を配備して以来、原子力空母の日本母港化は初めてである。ミッドウェーからは4代目、キティホークと交代した。高濃縮ウランを使う原子力空母は燃料補給が必要としない。
ジュリーさん、日本国憲法九条を守る歌の次には、戦争をなくそうという歌を作ってくださいな。
できたら、ジュリーがヴィジュアル系元祖として、もっと早い時期に、ステージで、日本国憲法第9条が、窮状(我が窮状)だと叫んで欲しかった。
追記(080929)
新しく発足した麻生内閣の中山成彬国土交通省が、閣僚就任後たった5日間で辞任した。「成田空港の整備の遅れは『ごね得』」「日本は単一民族」との発言については「言葉足らず」と改めて撤回する考えを示したが、一連の日教組批判については、政治家中山成彬としては撤回したという考えはない、と語った。日教組については、「日教組をぶっ壊せ」と発言した。そろそろ、この稿の〆に入らなくてはならない。ここでは暴言ならぬ確信犯発言をここに羅列できないので、改めて、中山確信犯発言集をまとめよう。
ここで、日教組をなりふりかまわず応援する心算は毛頭ないが、前の文で触れてきたように、私が育った小学校から高校までの間で、この稿のテーマである日本国憲法、第9条のこと、軍隊を認めないこと、戦争をしてはいけないことを、真剣に教えてくれたのは、どういうわけか、日教組バリバリの活動家の先生だった。中学校では、今闘病生活中の体育・吉岡先生、理科・山田先生、社会・森本先生がことあるごとに、高校では岡田先生等が、戦争のない日本のために、私等は頑張っているんだ、お前達もよく勉強して、先生たちの言っているいることをなるべく早いうちに理解してくれ、とどの先生も言っていた。
ジュリーも多分同じような教育環境のもとで育ったのだと思う。
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(080913)
朝日朝刊
還暦に憲法への思いを歌う/沢田研二さん(60)
文・藤森研
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麗しの国 日本に生まれ 誇りも感じているが
忌わしい時代に 遡るのは賢明じゃない
英霊の涙に変えて 授かった宝だ
この窮状 救うために 声なき声を集え
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変わらぬ艶のある声。バラード風の歌は自身の作詞だ。毎年ライブツアーを重ね、新作アルバムを出す。還暦を迎えた今年のアルバムの9番目はこの歌だ。題は「我が窮状」。
耳で聞けば、「このキュウジョウを救うために」となる。
まぎれもない憲法9条讃歌だ。
なぜ今?
「60歳になったら、言いたいことをコソッと言うのもいいかな、と。いま憲法は、改憲の動きの前でまさに『窮状』にあるでしょう。言葉には出さないが9条を守りたいと願っている人たちに、私も同じ願いですよというサインをおくりたい」
平和への関心は昔から強い。ある時、バンド仲間と戦争の話になり、一人が喧嘩にたとえて言った。「攻められたら、守るだろう」
いや、一対一の喧嘩と、国と国の戦争は違う。そう思い至ったときに「少しプチッとはじけた」。戦争には、望まない人まで巻き込まれる。
これまでも「9条を守ろう」という文化人らの意見広告やアピールに時々、目立たないように賛同してきた。大声で呼びかける柄じゃない、と笑う。歌はソフトに終わる。
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この窮状 救えるのは静かに通る言葉
我が窮状 守りきりたい 許しあい 信じよう
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