下の太字の文章は朝日新聞の記事を、いつものように無断で勝手に転載させていただいた。
以前に「冒険と探検はどう違うのか?論争」に興味を惹かれたことがあった。また、政府の後援を受けたスコット隊長が率いるイギリス南極探検隊の極点をめざしての行進を記録したチェリー・ガラードの「世界最悪の旅」を加納一郎訳で読んで、これこそ冒険であり探検なのだと思い知った。スコット隊と、生まれながらにして探検家のアムンゼン率いる南極探検隊との極点初到着を争っての行進の状況を、各々の隊を比較した記録本も読んだ。加納一郎さんの著作集全5巻も手に入れた。過去にこれだけたくさんの探検モノを著作に残した人はいないのではないだろうか。白瀬のぶ中尉の失敗に終わった南極探検のことを小説にした綱淵謙錠の「白瀬中尉南極探検記・極」も楽しく読んだ。明治時代、日清戦争前後に、千島列島を探検し占守島に到着、その後は資金難にもめげず南極探検を企て、貧弱な船や装備で南極大陸になんとか近づくことはできたが、大陸に足を一歩踏み出すまでには至らなかったが、日本にもそんな稀有な探検家・白瀬のぶ中尉がいたことが、日本探検界の誇りだ。朝日新聞の編集委員だった本多勝一の極地探検に関する著作も、面白く読んだ。京大探検部の生みの親の今西錦司や兄貴格の梅棹忠夫の探険に関する数々の著作も楽しく読んだ。
写真は、南極点到達の5人(イギリス南極探検隊)
左からオーツ、ボワーズ、スコット、ウィルソン、エバンズ。1912年1月17日、ボワーズがレリーズボタンを押して撮影
そして、今、石原慎太郎の「弟」を読んでいたら、弟の裕次郎が独立プロを設立して、堀江謙一の「太平洋ひとりぼっち」の映画化に至るまでのてん末の部分が書かれていた。堀江青年は、1962年、ヨット・マーメイド号で、太平洋を単独無寄港で航海に成功した。映画化のことについては、この際のテーマではないので、脇に置いておこう。その一文の中で、堀江青年の「太平洋ひとりぼっち」の快挙を、石原慎太郎はなんとも私には耐えられない表現で矮小化していた。その箇所でカチーンと釘付け状態、私は読み留まったのです。発行所・幻冬舎、『弟』の181ページ の終わり3行から182ページの文章のことです。この本は、石原裕次郎とその兄の慎太郎の子供の頃から弟が死ぬまでの、生い立ちから俳優や作家や政治家になる過程での、その関係者を含めての生活史だ。病魔に苦しむ弟、彼を看取る親族や関係者。そして死亡。弟の鎮魂歌だ。そんな本なのに、わざわざ、堀江青年の偉業を、字を連ね行を替え、そこまで書き綴ることもないではないかと思われる、石原慎太郎の真意は何だ。私には、堀江元青年に対する悪意にも感じられた。正直、「石原さん、あんたなんかに、堀江謙一の冒険を批判できる資格なんて、ありっこないよ」、だ。
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20090103。正月の3日の朝日新聞に堀江謙一の日本人初の単独無寄港太平洋横断のことが載っていたので転載させていただいた。(伊藤千尋)
五月雨があがった真っ暗な海に、5,8メートルの小さなヨットが滑り出した。62年6月12日夜、兵庫県西宮市のヨットハーバー。目指すは太平洋の向こうだ。
荷を減らそうと、積んだ飲料水は標準量の3分の1。出航から3日目に強風が吹き、船酔いで血まで吐いた。疲労で、もう一人の自分がいる幻覚を見た。台風に遭い、巨大な波がガラスを割って海水がなだれ込んだ。9ミリしかない底板を、フカの群れが突いた。
目標の米サンフランシスコの金門橋をくぐったのは、出航から94日目である。単独で太平洋を渡った初の日本人となった。
無事に到着したのは嬉しいが、一方で堀江自身は逮捕、強制送還を覚悟していた。パスポートを持っていなかったからだ。当時の日本では、小型ヨットでの出国は許されなかった。
実際、堀江の航海を報道した日本の新聞は「太平洋を単独横断」という大きな見出しとともに、「人命軽視の冒険」と批判する記事も載せた。勇敢な冒険か、無謀で法を犯す密航かをめぐって世の評価は割れた。
判定はアメリカからもたらされた。サンフランシスコ市長が堀江を名誉市民とたたえて「市のカギ」を贈ったのだ。これを機に、日本のメディアは一斉に堀江の行動を「壮挙」と報道するようになった。64年にはイタリアで創立された「海の勇者」賞の第一回受賞者となった。
「評価はすべて外国からやってきた」と堀江は苦笑する。
堀江のヨットの設計をした横浜市の横山晃(故人)は、堀江を「日本の海洋スポーツ界に100年に一度と言うほどの功績を残した。1600年代の以来の日本政府の鎖国に明確な終止符を打った」とたたえた。
マスコミの批判の波は10年後の2回目の航海のときも押し寄せた。世界一周を目指したが、マストが破損して8日目で挫折した。だが、堀江はめげなかった。「8ヵ月後には次の航海をする予定だったから」だ。航海をしながら常に次の航海を頭に描き、新たな夢を追う姿勢はその後も続く。
74年には世界一周を成し遂げた。
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冒険とは未知の領域への限りない挑戦だと理解しているのです。堀江謙一氏が24、5歳で成し遂げた冒険は、私が勝手に尊敬している人が言う冒険のイメージ通りなのです。
『無謀な冒険を決行することによって、日本的社会での体制から指弾された、全ての分野での青年たち』よ、臆病者(イシハラ・シンタロウ)の言うことに惑わされるな、ということだろう。
このようなことに、異常に敏感に反応する私だから、下記の内容の記事には、格段、心がときめくのです。
冒険/探検/探険
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(081203)
朝日朝刊・スポーツ面・自由自在
速攻登山、日本隊が快挙
(近藤幸夫)
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この秋、日本人クライマーが相次いで世界的な登攀(とうはん)に成功した。ヒマラヤの6千、7千メートル級の未踏ルートを「速攻登山」で制覇した。
9月22日、隊長の一村文隆さん、天野和明さん、佐藤裕介さんのパーティーが、インド北部カランカ(6931メートル)北壁を攻略。10月5日には平出和也さん、谷口けいさんの男女ペアがインド北部のカメット(7756メートル)南東壁を世界で初めて登った。この二つが世界的評価を受けるのは、超高所のヒマラヤ難ルートを短期間で制覇したからだ。
かってのヒマラヤ登山は安全のため、物量、人材を投入。大人数で固定ロープを張り巡らす極地法主流だった。速攻登山は少人数でテントを担ぎ、互いにロープを結び一気に山頂へ突き進む。カランカ隊は吹雪で3日閉じ込められながら8日間で登り、男女ペアも1週間で成功した。
しかも挑んだのは、どちらも標高差約1800メートルの垂直に近い氷と岩の壁。欧州アルプスの岩壁登りでは標高の最高点が4千メートル台だが、彼らは5千メートルを超えた地点から登り始める。岩場の難しさに加え、高山病など危険も。メンバー全員にかなりの力量が必要で、世界でも限られた登山家のみに許される世界だ。
カランカ隊はアジアでその年に最も優れた登山隊を選ぶ「金のピッケル賞アジア版」を日本から初受賞した。授賞式に出た天野さんは明大山岳部OBで8千峰6座登頂の実力者。早くも「来年は7千メートル峰の難ルートを狙いたい」という。平出さんは「誰も登っていないのでルート図がない。未知の世界を克服する喜びがある」と振り返る。
この二つの新ルートは過去、各国登山隊の挑戦を拒んできた。レベルの高さを実証した日本は今後、世界をリードしてほしい。
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