2010年4月7日水曜日

普天間を、沖・日・米で知る

宜野湾市の市街地のど真ん中にあるアメリカ海兵隊普天間基地を、その危険な状態をなんとか回避したいという沖縄県と日本政府は、長年、米国とその移転先について協議してきた。かって自民党政権は、名護市の辺野古地区に移設することで、最終調整に入っていた。その矢先に、昨年の衆院選挙で民主党は辺野古移設計画の見直しと、普天間基地を国外、最低でも県外に移設することを選挙公約にして大勝、自公連立から民主党ら三党連立に政権が交代した。その結果、移設問題は振り出しに戻った。だが、私には自公が推し進めようとしていた辺野古地区への移設だって、その通りにスムーズに進められるとは思っていなかった。もうこれ以上に、沖縄県民には基地はこりごりなのだ。政府や首長が合意したって、あっさり納得できない住民は、幾万人もいるんだ。

それからの、この普天間移設問題は、民主党を中心とした連立政権内において、いまだに窓口になる担当者は決まっていない。県内に移設するというのならば平野官房長官あたりがきちんと今後の方針の話し合いを沖縄県知事ともたなければならない筈なのに、見受けられない。国外や県外なら、これも当然その国や地方公共団体の首長と話し合いを持たなければならない。が、今のところそれらしき動きは、政府の方にも迎える県にも国にもない。

3月31日の国会での党首討論にて、鳩山首相は、普天間問題について「5月末までに政権としての考えを米国や新しい移転先に指示し、理解を求めることが私の役割だ」。5月末までの決着を目指す考えを重ねて強調した。「命懸けで体当たりで行動し、必ず成果を上げる。政府を信頼していただきたい」

それからの首相の答弁が危なくなってきた。腹案を既に用意してある、なんて言い出したのです。さすがにこの時期のこの場において、首相としてなんとか格好だけでもつけなくてはイカンとでも思ったのだろうか。腹案に関しては「(沖縄県名護市のキャンプ・シュワブ沿岸部に移設する)現行案と同等か、それ以上に効果のある案」としたものの、交渉に影響が出るなどとして現時点での公表は拒否した。関係閣僚とは調整済みであることを強調した。本当かよ?本当は、これからなんでしょ。その腹案って、地元住民に納得を得られるのか。得られないないようでは、米国だってその代替案にのってこないだろう。

さて、鳩山由紀夫首相の腹案はいかがな結果になるのでしょうか。お手並み拝見というところだろう。私には、昨年の総選挙で、選挙カーの上から「普天間基地を、国外、最低でも県外に移設する」と高らかに、何度も何度もマイクで叫んでいた姿が頭から抜けない。沖縄県民は、すがる思いでこの党に委ねようとしたのではないのか。沖縄県民を裏切るな、鳩山首相。

あれだけ、声高に叫んだ「普天間基地を国外、最低でも県外に移設する」が、未だに何の進展も見られない。

ここに、沖縄大学の新崎名誉教授が、何故普天間移設なのか、普天間基地がどのように作られたのか、その過去と現状、占領地だった沖縄と日本本土、日米安保について要約した文章を寄稿されている。この短い文章だけで、私はいっぱい学習できました。教授に、朝日新聞に感謝。

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20100325

朝日・夕刊

普天間問題で思い起こすべきは

安保の裏に沖縄差別

新崎盛逹エ(あらさき・もりてる)/沖縄大名誉教授

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*写真の説明=戦後初期の沖縄の米軍基地にはフェンスもなく、米軍爆撃機のそばで住民が草刈をする光景も見られた。

米軍普天間飛行場の移転先をめぐる論議が熱を帯びている。しかし、この問題の本質は、単なる移転先探しにあるのではなく、戦後65年にわたって続いてきた日・米・沖の関係をどうとらえなおすか、というところにある。

よりストレートにいえば、構造的な沖縄差別の上に成り立ってきた戦後の日米関係を今後どのようなものにしていくのかを考える糸口として、この問題はある。

普天間飛行場のある場所は、戦前、村役場や二つの国民学校(小学校)、五つの集落があり、田畑が広がる宜野湾村(現・宜野湾市)の中心部だった。沖縄島南部でまだ日米両軍の戦闘が続いていた1945年6月、米軍はここに、日本を攻撃するための基地として、普天間飛行場を造った。

返還されぬ土地

戦場を命からがら逃げ回っていた村人たちは、戦争が終わっても、元住んでいた場所に戻ることはできなかった。やむなく人々は、米軍基地にへばりつくようにして戦後の生活を始めた。当時の基地にはフェンスもなく軍用機のそばで草刈をする人々の写真が今も残っている。

国際条約(ハーグ陸戦法規など)によれば、戦争中でも敵国民の私有財産は尊重されなければならない。まして戦争が終結すれば、奪った土地は生活者に返還するのが道理だろう。ところが、日本が占領下を脱して独立した後も、沖縄は、米軍政下に置かれ続けることになった。

一方日本でも、占領軍は、安保条約に基づく米軍として、国内に居座ることになった。このため、砂川闘争をはじめとする反米反基地闘争が続発した。そこで日米両政府は57年、海兵隊など一切の地上戦闘部隊を日本から撤退させることに合意し、安保改定を準備した。山梨、岐阜などから撤退した海兵隊は、日本ではなかった沖縄へ移駐した。

米海兵隊は、地政学的必要性から沖縄に配備されていたのではなく、政治的配慮で沖縄へ移駐してきたことを思い起こしておきたい。

矛盾をしわ寄せ

52年の旧安保発効から60年の安保改定までに、日本の米軍基地は4分の1に減少し、沖縄の基地は2倍に増えた。基地のしわ寄せ、すなわち安保の矛盾のしわ寄せである。

72年の沖縄返還に際しても、在日米軍の再編が行なわれ、日本本土の基地は3分の1に減少したが、沖縄の基地はほとんど減らなかった。普天間基地が、市街地の真ん中にある世界一危険な基地といわれるようになるのも、沖縄への基地の集約・強化、フル稼働の結果である。

95年の米兵による少女暴行事件をきっかけとする民衆の怒りの爆発に直面して、日米両政府は、普天間基地の全面返還を約束した。ただし米側がその代替施設を要求したため、膠着状態が十数年も続いている。

政権交代を前にした民主党の国外・県外施設の公約は、少なくとも沖縄では、安保の矛盾、構造的沖縄差別の是正への第一歩と受け止められた。沖縄における総選挙や名護市長選挙の結果は、そうした期待の表明である。

在韓米軍の大幅削減が計画され、米中、日中の経済的相互依存関係が深まる現在でも、海兵隊の抑止力が日本にとって必要なのか。必要だとすれば、基地負担も全国民が均等に負担すべきである。だが、本当にそうなのか。

普天間問題は、安保を我が身に引き寄せて考える契機とすべきなのである。

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