「密室芸」で売り出した
漫画家、天才バカボンの生みの親、赤塚不二夫の葬儀でのタモリの弔辞が、かって文芸春秋に全文掲載された。余り買わない雑誌だけれども、この弔辞をじっくり読んでみたくて買ったのでした。
弔辞を読んでいるタモリの姿がテレビで映し出されていたが、どこにも白紙の弔辞を読んでいるように思える箇所はなかった。原稿になかった言葉を、途中の何処かのアドリブで、文章にない文章を読み上げたのでしょうか。このことについて、真相を詳しく報道されていない。彼の能力からして、その程度のアドリブぐらいならお茶の子サイサイだったことだろう。
タモリが朗々と述べた弔辞を文芸春秋で読み、二人の馴れ初めから、本格的な付き合いへ、タモリが有名になって、赤塚不二夫が漫画家として、それから闘病、死に至るまで、その文章は私には一つのドラマを聞いているようで、二人の仄々(ほのぼの)としたお付き合いに、なんとも心地良い気分にさせられたのでした。
それから日が経って、先月の中頃、私の女房が入院中に、その病床の枕元にあった週刊誌で、下の記事を見つけた。週刊文春の2010の8月12日号だった。週文のかっての連載「ギャグゲリラ」の担当者が語ったものらしい。余りにも私の心をガク~ンと打つイイ話だったので、ここに保存させていただいた。ここに至って、あの弔辞の不思議な心地よさの源流の一部を見せてもらったような気がしました。なるほど、と二人を納得したのです。
以下はこの週刊文春の記事をそのまま転載させてもらった。週文の編集者殿、私は善良な読者です。許せ。
昭和五十年、山下洋輔らに見いだされて博多からタモリが上京。タモリの才能に惚れこんだ赤塚は自らテレビに売り込んだ。意気投合した二人は、連日酒席でギャグにのめり込む。「赤塚先生は、毎晩、編集者たちを引きつれ、飲み歩いては、新宿の『アイララ』というバーでタモリと合流する。キャバレーの噴水から、裸のタモリがイグアナの真似で出てきたり、新しい遊びを考えるのが日課でした」。
そんなある晩、赤塚がタモリに絡み始めた。「お前、売れ出したと思っていい気になるなよ」タモリも色をなし、「そんな言い方ないだろ、売れない漫画家に言われたくないよ」とやり返す。周りが必死に止めるが、手にした水割りをぶっかけ、ついには取っ組み合いに。
タモリを羽交い絞めにして鼻の穴に落花生を詰め込む赤塚。すると今度は、タモリがグリーンアスパラにマヨネーズをつけて赤塚の鼻に突っ込むーーー。
「ようやく我々も『あれ?おかしいな』と気づく。要は、二人で綿密に仕組んだギャグだったわけです。先生の持論は『バカなことは本気でやらないとダメ』。遊びの時に気を抜くと、『ふざけるな!真面目にやれよ』と叱られる。(笑)」。
上京して間もないタモリに、赤塚は自分が住んでいた目白の高級マンションを明け渡し、自分は木造二階建ての仕事場で寝泊りした。理由を聞くと、「タモリは今まで会ったことのない、もの凄い才能だ。ああいう都会的で洒落たギャグをやる奴は、贅沢させないと。貧しい下積みなんかさせちゃダメだ」
タモリは絶大な恩を感じただろう。それから十年後。仕事場を訪ねた担当者に、赤塚は一通の通帳を見せた。「『タモリがさあ、自分の会社の顧問になってくれって言うんだよ』。そこには毎月三十万円ほどの決まった額が振り込まれていました。当時、先生は連載がひとつもなくなって、不遇の時期だったのです。またタモリは『先生、あのベンツ乗らないでしょ。一千万円で譲ってよ』『キャンピングカー、五百万で譲って』と言っては、代金を払ったといいます。先生のプライドを傷つけない気遣いなんです」
むろん赤塚もその思いを察していた。「『タモリの会社なんてホントはあるのかどうかもわからないしさ、ああやって俺のこと助けてくれてるんだろうな』と言っていました。いい話だなと思って、通帳をよく見ると、一銭も使っていない。『そりゃそうだよ。芸人なんて二年で飽きられるだろう。そうなったらこの金で俺がタモリを喰わせてやるんだ』と。赤塚先生が一枚上手だった」。
そんな師弟の信頼関係があってこそ、冒頭の名弔辞が生まれたのかも知れない。「あの弔辞はアドリブでは、と言われますが、私は違うと思う。練りに練った文章ですよ。でも、それを普通に読んだら先生が許さない。赤塚・タモリの最後の”大真面目な遊び”だったのでしょうか」
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