若者よ、狭き門より入れ。
このごろ「、山岡さん、昔、サッカーをやっていたんですって、もっと、お話を聞かせてくださいな」、という機会が時々ある。新しく入社した者も、話を聞きたがっている者がいるようなので、20年程前に、入学してから夏の合宿までの様子をまとめたものがあるので、公表した。今回、一部加筆しました。大学サッカー選手権(通称・インカレ)に優勝、関東大学選手権優勝したんだデエ、なんて言うだけでは、凄く格好良く聞こえるのだが、その実態は、そんなもんじゃございませんでした。でも、私の人生の核になるものを育ててくれたことは、間違いない。
大学のサッカー部(ア式蹴球部)に感謝。先輩、後輩、同僚に感謝。もう、感謝、感謝なしでは、語れない、わ。師と仰ぐ人にはあまりめぐり合ってはいません。みんな、普通の人で、特別な人はいませんでした。その普通の人が、普通でないのです。その普通の人が強烈なのです。唯、堀江教授とキング・工藤さんだけは、少し変な人でした。どこが変なのかは、後日何かの機会に著せていただくことにします。
入学した(昭和44年)。
東伏見のグラウンドでは、学生たちが石灰でラインを引いたり水を撒いたり、整然と作業が進んでいた。
真っ青な空に、グラウンドの土色に白いラインが印象的だった。
作業は静かに淡々と進められていた。役割りが分担されているのだろう,無駄無く進んでいた。さすがに大学生だと思った。私の高校時代は、グラウンドの整地さえたまにしかやらなかった。
みんな、大学生なのだ。大人、なのだろう。
グリーンハウスの横にある水飲み場で、ちょっと怖そうな奴にサッカー部に入りたいのだけれどもどうしたらいいのですか?、と聞いた。その男が、その後、私の終生の友人になるとは、不思議な縁だ。東伏見で最初に声をかけた奴は、金 性勲「金城 勲・キム ソンフニィ」だ。「あの人に聞いたらええわ」、その時、こいつは関西人やな、京都じゃない、大阪の奴やと見抜いた。
あの人だと指を指された人は、新人監督の山本和夫さんだった。山本さんは、新人監督として、新人たちの面倒をみていた。陰で、新人達の作業をチェックしていたのだ。陰険な人ではなかった。無茶苦茶正直な人だった。
ちょっと来いと言われて寮へ連れて行かれた。山本さんは、開け放された腰高の窓に座り、私は、知らず知らずのうちに正座をしていた。どっから来たんや、サッカーをどの程度やってたんや、高校はどこや、色んなことを尋ねられた。今迄何してたんや、二浪もして、頭の悪い奴やな。ドカタをしていましたと言ったら、山本さんにえらくうけた。何でそんなにうけたのか、私にはさっぱり解らなかった。
もう既に、新入生は通常の大学の練習に参加していた。合格発表とほぼ同時に寮に入っていたのだ。
入部する者は受験前からマネージャと打ち合わせをしたり、指導を受けたりするのが普通で、お前のように、突然何の連絡もなく直接このように来る奴は初めてや、と言われた。
山本さんは、京都山城高校の出身、宇治にあった、私が卒業した城南高校のことはよくご存知で、親近感を持ってくれたのだろう、その場で早く寮に入れと言ってくれた。山本さん、誰かと相談しなくてもいいんですか、と聞き質したかったのですが、そんなこと、恐ろしくて私は言えなかった。
まだ、この時点でさえ、これから、大学においてサッカー部員として、本当にやっていけるかということについて、脳天気だったような気がする。二年間の過重なドカタ仕事と、勉強の二刀流暮らしで、本当に緊張するということを忘れてしまったみたい。脳のどこかが、破壊されたのか。ありがとうございますと言って、その日は寮を後にした。
アパートに戻り、大家さんに報告した。
入部の手続きの前に、アパートを借りてしまったのです。寮があるなんて知らなかった。まして、新入生は全員入寮しなければならないなんて。大家さんは、私のサッカー部への入部を、自分の息子のことの様に喜んでくれた。いい人だ、俺もこんな優しい老人になれたらいいなと思った。清々とした美しい人だった。翌日、再び大家さんに感謝を込めて、お別れの挨拶をした。一週間だけのお付き合いだったのに、こんなに心に触れるお付き合いができたのは、郷里を離れてちょっぴり心細い思いをしだし始めていたからかもしれない。礼金も敷金も、一週間分の家賃も全部返してくれました。悪いことをしてしもうた、と思ったのですが、大家さんの気持ちを丸飲みさせていただいた。
ゴングが鳴った。試合開始だ。
キックオフのホイッスルが吹かれた。
布団袋を背に担いで、西武新宿線、高田馬場駅から東伏見の寮を目指した。大きい荷物を背負ったかっこうは、まるで蟻さんみたい。節約第一です。大学の4年間でつかえる学費と生活費の最大額はきまっていましたから。二年間、ドカタで稼いだお金、農協に貯金してある原資が全てでしたから。
このまま、このままで、早稲田大学ア式蹴球部にめでたく入部、東伏見寮に入寮したのです。住所は東京都北多摩郡保谷町東伏見。
それからの、何日間、全く記憶に無い。今までとは全く異なる環境の激変に翻弄され、無我夢中の日々の連続だったのだろう。不確かな、なにがなんだか解らない、覚束ない、脳の活動はオーバーヒート。そんな夢遊病者のような日々を過ごしていたのです。
履修科目の届けを事務局に出さなければならないのですが、どうすれば、いいですか?と先輩に聞いた。先輩は私が何を考えているのか、何も聞かないうちに、社会科学概論だ、これは難波田春夫先生だ、それとフランス社会思想史は?,日本ナショナリズム研究は木村時夫先生だ、とかなんとか言って、私の履修科目を次々に指定していく。これらは、出席をとらないんだよ、というのが科目を指定した理由だった。当然政治学原論もなあ。これは堀江先生だ。サッカー部の先輩で、教授だ。面倒見てもらえるんや。このように、選択科目の全ては、伝統に従いました。
当時の早稲田大学ア式蹴球部のことを紹介しよう。
早稲田大学のサッカー部には、ワセダ ザ ファーストと言って、早稲田は常々いつもチャンピオンであらねばならない。そして日本のサッカー界をリードしていくのだという自負があった。
だから、私が入部した以前の戦績は誇り高いものだった。関東大学リーグでもインカレでも常勝、優勝か準優勝だ。天皇杯でも、実業団のチームとも互角に戦ってきた。寮の彼方此方に先輩たちが書き残した落書きにも、そういう気概が感じられる。
そんな立派なクラブなのに、他の大学では考えられないことがあった。
それは、サッカーのテクニックがある程度のレベルに達してない者でも入部が許されていたことだ。一番の原因は、下手糞な奴が入部してこなかったからかもしれないが、希望すれば誰でも入部できる。私は当然のことと思っていたのだが、早稲田ならではのルールだったようだ。そう言う訳で下手糞な私でも入部がかなえられたということなのです。これは、私にとって、思いもよらぬことだった。クラブは原則、来るものは拒まぬ、であるべきではないのか。さすが、我が大学は他校とは、違った。
でも、そんなに名誉ある過去をもちながら、私が入部した年(昭和44年)は惨憺たる結果に終わった。創部以来の悪成績だった。関東大学リーグ戦6位で最下位。この年の4年生は、ほとんどの選手が高校生の時はユース代表、高校選抜、大学でも大学選抜、全日本代表の選手もがごろごろいた。この年度の悪戦績で、誰もがいろんなことを学び取った。
私はと言えば、少しの練習でさえ、体のバランスをコントロールできないほど、直ぐに体力を消耗した。頭脳も、体力の消耗とあわせて完全にマヒするのです。
キング・工藤さんは、私を呼び止めて、「おい! 京都から来たとか言う や・ま・お・か! いかめしい名前をしとる奴! なんじゃ! お前! 尻(けつ)に糞でも挟んで走っているのか! 」とおっしゃりぬかした、のでありあります。
糞っ垂れか? ズ星です。
さすが、かって共同通信社の記者だけあって、表現は、ウマイ。
私は走れなかった。もともとタフではなかったし、2年間、練習らしきこともしなかった。ドカタ仕事で筋肉はついていたが、この筋肉がかえって、よくなかったのだ。静止しながらの肉体労働で、身についた筋肉は、走ることや微妙な動きをすることには、かえってマイナスの原因になったように思われた。相撲とかレスリングには良かったのかもしれないが。
二年間のドカタ稼業で身につけた、私の「スコップ取り扱い術」は相当なもので、グラウンドの管理人の藤間のオジサンに頼まれて、生ゴミを埋める穴をグラウンドの隅っこのあっちこっち掘った。4メートル四方で、深さが3メートルの穴です。関東ローム層の地面は、私にはたやすく、お茶のこサイサイだった。夜は藤間宅でご馳走になり、小遣いとして、一穴、3000円呉れた。二時間位で掘れたから、高効率だった。世間の一般のアルバイトの時給は、一時間450円程だったから。藤間のオヤジは心臓に持病があったのです。
キング・工藤さんは、私と同期の工藤大幸の親父(おやじ)のことです。キング・工藤さんのことについては、いつかきちんと、「私にとっての工藤さんの巻」を纏めてみたいと思っている。
笑わないで欲しい。真っ直ぐに走れないのです。
身体のバランスや運動機能をつかさどる中枢が機能しない。体の各部がばらばらなのです。コースを外したくないからタッチライン沿いに走るのですが、どうしてもラインから外れて草むらに飛び込むこともしばしば。あっあっ、と誰かが言っている声がはるか遠いところで聞こえてはいた。制御できないまま、頭から地面にぶっ倒れてしまって、我に返るのです。
そんな状態だったから、正規の練習には、種類によっては参加させてもらえない。そんな時、一人でキック板に向かってボールをひたすら蹴り続ける。三角パスの練習、これには私は往生した。私の蹴ったボールが思い通りの方向にいけばいいのですが、うまく蹴れなかった時は、流れが途端に狂い、皆に迷惑をかけることになる。必死の覚悟で、注意深く蹴るのだが、先ず一発目で駄目、(や・ま・お・か~ キック板 )と古田グラウンドマネージャから指示が出る。
高度な技術が必要になる練習になると、一人二人とキック板に集まって来る。上手く練習の流れに乗っていけない者は、どんどん練習の邪魔になるからといって、みんなの練習からはずされて、キック板行きを命じられる。私は、他の誰よりも圧倒的に多くの時間をキック板前で過ごした。それから月形、高島、一言さん、中野さんの順番で、中途で退部した窪田さんも、ぶつぶつ文句を言いながらキック板にやって来る。
こんな毎日だった。まだまだ、サッカーをしているという実感がない。
雨の日はグラウンドが使えなくて、ランニング。私は皆とずうっと一緒に練習できるのが嬉しくて、にんまり。下手な私も、上手な人も皆同じ。上手な人程ランニングを嫌った。
雨の日は、大体、井の頭公園までランニング。
このランニングに早稲田伝統の行事がある。井の頭公園に着いた頃、先輩達の間で密かに謀議がなされる。新人達には全然気づかれないように、1年生の新人の誰かを指名し互いに確認し合う。そして、示し合わせた場所にさしかかると、先輩達は指名した新人を急襲。一糸纏わずの、真っ裸にして追い払う。
私達が1年の時には月形(菅平合宿で夜、寮を後にした)が選ばれた。剥ぎ取った衣服を、パンツ、ストッキング、シャツ、サッカーパンツをどんどん遠くの木の枝に次々と、引っ掛けて行く。月形はチンチンを両手で押さえながら、ひとつひとつ衣服を木の枝から取って身に纏って行く。
公園の傍のマンションの住民は、騒ぎに気づき窓から顔を突き出す。いやだと思ったのか、面白いことやっとると思ったかは、我々には解らないが、見物人は減らない。月形は被害者なんだけれど、可愛そうだとは思わなかった。私には、人を虐めて面白がる、悪魔が住み付いているのでしょうか。だが、私が最高学年になったときには、このようなことはしないようにしたい、と思った。
いや、これはお祭りなのです。
サッカー部の練習は年間を通じて、月曜日は休み。だから、月曜日は、私にとっては、絶好の練習補修日、体力補強日だ。一人で何処までも走った。武蔵関公園、井の頭公園、善福寺公園、上石神井公園、どこも私の親しんだ公園だ。走っていく行き先は、必ず公園を目指した。
金欠病には異常に抵抗力のある私だが、暇はいかん。暇だとお金のない生活に急に不安になるのでした。いやだ、いやだ。走って忘れろ。貧乏はいやだ。
技術的には追いつけなくても、走る力だけでも皆と同じレベルまでになりたい。そうしたら、何か可能性が見えて来る筈だ。東伏見から多摩湖まで全員で一年に一度走った。私は一人でも多摩湖まで走ったことが度々ある。
走って、疲れたら歩いた。小さな草花を摘んだり、神社のお祭りに出くわしたり。シャバは、魚を釣ってる人、将棋に興じている人、デイトの若いカップル、買い物帰りの人、追いかけごっこの子供たち。糞っ垂れ、みんな好きにしろう~。
猫とじゃれたり、犬に吼えられたり、道に迷ったり、本屋に寄ったり、一日がゆっくり過ぎて行く。私は、ひょっとして、この世界の中で一番幸せ者なのでは、と思ったりもした。
下手糞でもかまうものか。俺は俺らしく、やらねばならないことをきちんと、やるだけだ。
お父さん、お母さん。学校を卒業したら勉強をします。誰にも負けないほど勉強しますから、今はサッカーを人並みとは言わないが、もうちょっと、上手にプレーできるようになりたいのです。卒業したら、社会科学概論、フランス社会思想史、日本ナショナリズム研究、政治学原論もきちんと勉強をやり直します。社会人として、恥ずかしくないように、必ず勉強しますから。
そんな日の連続だったけれども、ちょっとづつだけれども体力はつきだしてはいた。
新人戦は大学のサッカー行事としては、あまり重きを置いてない大会だったが、参加している者達にとって、真剣そのものだった。
新人戦はトーナメント方式だったが、優勝したのです。
入部した人間が少なかったものだから、私みたいな者も試合に出してもらった。嬉しかった。優勝したその夜、先輩達の優しかったこと。よかった、よかったと酒を注いでくださる。今日は、君たちだけで自由にやっていいぞと言い残して、先輩達は何処かへ出かけた。宴会は新人達だけの大酒盛り。箒を振り回して大暴れ、ガラスを数枚割ってしまった。先輩達は、私達の乱痴気騒ぎを、その夜は優しく容認、なんでも許してくださった。
飲み慣れない者達の、危険な飲酒。果ては死一歩手前のゲロゲロの土佐衛門。朝、目を覚ました。顔をあげようと思っても、ゲロゲロが接着剤になって畳から顔が離れない。ばりばりと無理に離すと顔には畳の筋が深く刻まれていた。
昨夜あんなに優しかった先輩が、今日は、いつもの怖い顔で掃除をちゃんとしとけ、割ったガラスはガラス屋さんに電話して直して貰え、と。いい先輩達だ、ほんとにいい人達だと私はとても幸せな気分になった。
夏になりかける頃、5月の終わりから6月は暑くてもう大変。この頃が、一年で一番紫外線が強く、一番日焼けした。暑さに慣れていないので、この時期、一番苦しかった。
造反有理、解体。
私たちのキャンバスでも、学生運動が激しくなってきていた。一月には東大安田講堂が陥落。べ平連(ベトナムに平和を市民連合!)が新宿でフォーク集会を開いていた。警官隊と乱闘になった。このような世相を受け、クラス会が活発に開かれ、授業ボイコットがたびたび行われた。早稲田では、学生会館の自主運営、授業料反対、で大学の機能が、六月には完全にマヒ状態になっていた。
クラスの友人が革マルで活躍していた。私も、彼に共鳴して夜な夜な角棒、ヘルメットをかぶってデモに参加した。昼間はサッカーだ。
新感覚派左翼人?ってとこだ。
理論武装に関しては、不真面目だった。この頃から、私は、ものの考え方をますます左傾していった。部室の私のタンスには、「革マル」,「Z]のマーク入りのヘルメットをしまっておいた。同期の者が、昨日のデモはすごかったな、なんて話しているのを黙って聞いていた。私も、そのデモ隊の一員でもあったのだ。こんなことは、そうっとしておこう、と思った。読書の傾向も変わってきた。ドカタと勉強の兼業、素浪人時代は、太宰、織田作、安吾、田中エイコー、山岸外史、一連のデカダンの本を読み漁っていたが、ここへきて、柴田 翔、高橋和己,あとは小林多喜二、五味川純平、大岡昇平、堕落前の開高 健、井上光晴の本にかわってきていた。当時は、ベ平連なんか、女学生の文化活動のように思えて、こ馬鹿にしていた。
そのうち、学校当局がロックアウトをして、学生は構内に入ることができなくなりました。当然、講義は開かれず、レポート提出で前期は終わった。
夏の合宿は、地獄の一丁目一番地だ。
例年8月の初旬、夏休みの為地方に散らばっていた部員が決められた日時、上田の駅頭に集まる。菅平の合宿の始まりです。
上級生は余裕のよっちゃん、へらへらしている。
1年生は先輩から、お前ら、この世の楽しいことは此処で、もうおしまい。アイスクリームも、可愛い娘っ子のお尻やオッパイともお別れ、今生の見おさめじゃ。ええか、よく見とけよ。
菅平へ向かうバスに乗る。その菅平へ向かう途中毎年合宿を終えたラグビーが乗ったバスとこれから合宿をやるサッカー部のバスが行き違う。破顔一笑のラグビー部と悲壮感漂う面々のサッカー部が手を振り合う。そしてバスは、いや応なしに早稲田の菅平合宿所に近づく。
合宿所に着く。
到着するやいなや、先輩達は二段ベッドの下の方に我先に急ぐ。上段のほうが気分いいのにと、思いながら荷物の整理をする。何故先輩達が上段を選んだのか、夕方には直ぐに了解できた。合宿が始まると、誰もが強度の筋肉痛に陥るのです。後輩は、上段への上り下りで,歯をくいしばらなくてはならないのです。これが、大変なのです。足が、腰が、首が、手が、コチコチに固まってしまって、曲がらなくなるのです。
昼飯を食ってからグラウンドに集合。柔軟体操の後、ダボスに行くぞ、の掛け声一発でスタート。ダボス山はスキー場としては有名で、著名なスキーヤーがスイスにあるダボスに匹敵するいい山だということで命名されたとか。そんなことは、私には重要な問題ではない。
山では牛がのんびりと草を食っている。スキー用のリフトが頂上までかかっている。頂上まで走って登る人もいる。上りきったら今度は下りだ。ブレーキをできるだけかけないようにする。だって、自然のエネルギーがもったいない、と思うからです。今日はなんとか皆と同じ練習をやり通せそうだ。青島は、長距離には滅法強い、同期では抜群の実力者だった。俺を尻目に、ニタニタして走っていた。うらやましかった。
ボールを使わない練習が続く。筋肉トレーニングのメニューがどんどん続く。腕立て伏せ、ジャンプ、ボールタッチ、必殺8種目、ダッシュ、インターバル(100~105メートルを16秒で走り、1分間で戻る)、練習の種目は幾らでもある、、、、,
風呂は先輩から。 夕食はボリュウムたっぷり、初日だけは、がっちり食えた。高原野菜の本場だ、レタス、トマト、胡瓜凄く新鮮、飯は大盛りだ。よし、今日一日はなんとか終わった。明日はどうなるやら,気分良く床に就く。
朝は7時の起床(きっしょう)、の号令で始まる。ラジオ体操して朝飯。一息ついたら柔軟体操してダボス山へランニング。今日は決められた時間までに帰って来れなかった者は午後もう一回走らせるぞ。時間の調整できる者はいいが、俺には無我夢中で走るしかない、セーブすることなんてはできない。制限時間内に走り終えることができた。だが、走り終わって次の種目に練習が移っても、疲労が溜まっていて皆と同じ状態ではスタートできない。一次合宿は体力作り。ボールを使わない、体力養成の練習が続く。
練習が終わると、水道の蛇口を口に含み猛然と水を飲む。いくらでも入った。先輩は忠告する、真っ赤に燃えてるエンジンに冷たい水を掛けたらどうなるか想像してみろ。エンジンが壊れるんだ。キャップテンは、高校を卒業して東洋工業(現=マツダ)に4~5年勤めてから、大学に入った人でした。なあ~るほど。
そんなこと言われても、蛇口から口は離れない。シャワーを浴びて昼飯だ。新鮮な野菜と牛乳とボリュウムたっぷりな肉料理。料理を前に俺は箸が手につかない。山岡、どうしたんだ、どうしたんだと皆の声がうつろに聞こえる。腹は水で一杯。食欲が湧かない。
牛乳を飲んだだけで、じっと料理とにらめっこ。
小学生や中学生じゃあるまいし、だれも俺のことはかまってくれない。少しは野菜が食えた。なんとか昼休みにベッドへ行くと、もう皆は昼寝の真っ最中、また、また俺は遅れてしまった。少ししかうたた寝ができなかった。
3時午後の練習開始。体力養成の練習ばかりが続く。午後の練習の最後はインターバルだ。100~105メートルを16秒で走りきり、1分間で戻って来ることを何本も繰り返す。ある程度の本数をこなした後で、グラウンドマネージャが指示を出す、(トップを連続5本取った奴は上がり)、5本トップを取って上がる奴はいるが、時には4本までトップを取ってその後崩れいつまでも上がれない奴もいる。
俺はどうかというと、16秒で入れるのは2 3本で皆と本数は同じだけ走ってはいるんだが遅れてゴールするもんだから、戻る間に息の調整や心臓のバクバクがおさまらない。
そういう状態ではどんどん体力の消耗が激しくなって、脳や運動の中枢神経が、働かなくなり気が遠くになってきて体のバランスが崩れてくる。(これからは、トップを取った奴は上がってもええぞ)。俺はそんなことにはおかまいなしに、ひたすら走り続ける。
気を失いそうになりかけた頃、塚原さんがゴールラインで水をかけてくれる。不思議なことに、水をかけられたその時はシャンと我に返り、今度こそはと歯を噛み絞める。次は、(一番 二番 三番までは上がってもええぞ)。
俺はただ走り続けるのだ。塚原さん、神の水ください。もう誰も居ない。グラウンドマネージャと俺と塚原さんの三人だけだ。
『山岡 5本 16秒で入ってみろ』。
最後まで残ったわけだから、一番多く走ったことになる。これから5本か、ようしと気合を入れる。なにがなんでも入ってやるぞ。ストップウォッチを手加減してくれたかどうか、俺は知らないけれども、何とかぎりぎりでやり遂げられた。塚原さんや、神の水,グラウンドマネージャー、ストップウォッチを押した神の手、全てに感謝したい。このインターバル(100~105メートルを16秒で走る)で、私は、一日で最高の116回を走りきりました。スピードはともかく、よく走りきったと思う。
与えられたことを、初めてやりきった充実感が、嬉しかった。
一人グラウンドに大の字になって寝っ転がった。
顔からTシャツの胸にかけて、汗と土とよだれと鼻水がごちゃごちゃにへばりついている。明るい夜空に星が出ている。風が私の体を撫でて、気持ちがいい。私の育った田舎の星のように感じた。一週間前まで、生まれ故郷にいたというのに、もう田舎が恋しいくなってきたのだ。
嬉しかった。
土の匂い、草の匂いも、田舎の匂いだ。京都と滋賀の国境にある、山間谷間の宇治田原の匂いだ。
皆は風呂を終え、一年生は晩飯の用意を手伝っている。
俺は、一人風呂に向かう。皆、俺の顔を見てはニタニタする。食堂に行った時には、皆は食い終わっていた。食おう、喰おうと思ってもどうしても口に入らない。ジュース 牛乳 果物は頑張って口に入れた。洗濯が残っている。洗剤も入れないで洗濯をしていた。
次は心休まる幸せな眠りの時間だ。
ところが、眠れない。目が冴えて、頭が冴えて、眠たくならないのです。昼間の練習のこと明日の練習のことに思いを巡らせる。
月が天上から山裾に傾くまで、ずうっと月の動きを追っているうちに、夜が明け、外の世界が白けてくるのをぼうっと眺めていた。
そして起床、体操、朝飯、練習に入っていく。合宿に入って2、3日もすれば男用の大便器に血がつきだす。誰だか痔持ちがいて、日に日に血の量が増えてくる。俺は、最初に見た時は吃驚した。なんじゃこりゃ、女性の生理については話には聞いた事はあったが。
合宿がどんどん進んでいくと、そんなことはどうでもよくなり、目の前の物全てが霞んできて頭の中は空っぽ。何を見ても何も感じない。
下痢がひどくなる。3日目位から4日間は、便は水状態。何も食えなくなる。
そのようにして、合宿は続くのです。
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