2007年6月11日月曜日

おいらの田舎は、緑茶発祥の地だ。


宇治田原茶業青年会:編集 発行


和み茶房 緑茶の故郷宇治田原 お茶の情報誌より。


一部、私が加筆しています。



宇治田原は日本緑茶発祥の地  栄西禅師によって日本にもたらされたお茶は鎌倉時代には、(光賢)の手によって宇治田原でも栽培され、足利時代には庶民の間にも喫茶の習慣が広まっていた。


徳川八代将軍吉宗の時代に宇治田原町に茶農 永谷宗円という人物がいました。宗円は、現在の湯屋谷という場所で一生懸命お茶づくりに励んでおりましたが、四十三歳の頃,彼はもっと美味しいお茶は作れないものかと、いろいろな方法を試み始めました。

最初は失敗の連続で,周囲の人々に「あいつはいったい何を考えているんだ、気が狂っている」とまで言われながらも、ついに一七三八年 五十八歳の時に研究の成果が実り、「宇治製法」と言われる青製煎茶製法を発明しました。


それまでのお茶と言えば、文字通り茶色をしていましたが、彼は、当時宇治で取り扱われていた抹茶の製法にヒントを得て、独創的に蒸製法の煎茶を編み出しました。


それは、蒸した茶の芽をいったん急激に冷却し、次に高温の焙乾炉で揉捻しながら乾燥、整形する方法で今までになかった鮮やかな緑色で味も香りもたいへん素晴らしい緑茶を作り上げたのです。


彼は、この発明を機に喜び勇んでお茶をもって江戸へ行き、茶商を通じて販売したところ爆発的な人気を呼び、あっという間に売れてしまったそうです。そして瞬くまに宗円の発明したお茶が日本中で人気を博しました。


また彼は同時にこの製造法を自分一人のものとせず、周囲の人々に快く伝授したので日本全国に宇治製法が広まり、皆がこの製法でお茶を生産するようになりました。


現在、全国各地で行われているお茶の製造は機械化が進んでいますが、その原理はこの(宇治製法)と同じなのです。この町が(日本緑茶発祥の地)と言われる由縁が、皆様にもお分かりいただけたのではないでしょうか。



利休の茶室が宇治田原にあった!?


その名を『独楽庵』という


千利休の茶室の一つ(独楽庵)は桃山時代利休が豊臣秀吉に請い入手した長柄の橋杭三本を用い、宇治田原に造られたと伝えられる二畳敷の茶室です。後にこの茶室は京都に移され、また大阪の阿波屋へ、そして一八〇四年に出雲へ移されたと記されています。


室町時代に村田珠光から始まる茶の湯は、当時、八畳半敷を造りそこへ炉を切ったことで名をのこしました。


彼は、心の修行をめざし、茶の湯を仲立ちとして(わびの心)の基礎を築き上げ、そして千利休により(侘茶=わびちゃ)として茶道文化は大成されました。


利休が晩年各地で広めたのは、宇治田原にあったとされる(独楽庵)の茶室形態と同じ二畳敷や一畳半敷茶室で、それは、利休がいう(脱欲の精神)と(清閑の境)と『自然と人間の畏敬の心』、つまり、茶の湯の(わびの心)のゆきつくところであったのではないでしょうか。



茶香服(ちゃかぶき) 


利き茶遊び


(茶香服)という言葉を聞かれたことがあるでしょうか?茶香服というのは、簡単に言ってしまえば、『茶を飲みその茶の産地を当てる』ワインでいうソムリエの競技と考えて頂ければ理解して頂けると思います。しかい、その世界はひとことで言い表せるほど簡単ではなく、何十年と茶香服をやっている人でも、なかなか満点をとることができないくらい奥の深い面白い競技なのです。


歴史的に見るとこの競技が始まったのは、鎌倉時代末期から室町時代にかけて流行した『闘茶=とうちゃ』が始まりとされています。その後、少しずつ形をかえながら現在までその姿を残している、実に伝統のある競技なのです。



緑茶の効用


細胞の変質を抑制するカテキンやテアニンなどのさまざまな成分が含まれて居ますが、最も注目されるのがカテキンという成分。緑茶独特の渋みの素となる物質です。細胞の酸化を防ぎ、生き生きと保つこのカテキンという成分は、細胞の中にある脂質の酸化を抑制する働きもあり、細胞を常に元気に保ってくれるという優れた成分なのです。緑茶に含まれるビタミンは(ACE)と呼ばれ文字通りの栄養のエース。他にもビタミンC E カロチンが豊富です。



古老柿伝説「美女石」 


(孤娘柿)とも。 


つるのこ柿とも。



宇治田原町のもうひとつの特産物は古老柿。秋になると、澄み切った秋空のもと、あちこちで(ぽきん、ぽきん。)と枝を折る乾いた音が青空にこだまします。稲刈りも既にすみ、秋祭りも終わってほっとした頃。お正月にそなえて宇治田原の町では、古老柿作りが始まります。そんな古老柿にまつわる伝説をご紹介しましょう。宇治田原の柿は枝もたわわに実るとても美しい眺めでしたが、どうしたことか甘い柿が少なかったのでした。村人たちはいろいろ工夫しましたが甘くはならず悩んでいました。ある日、一人の少女が道端にたおれていました。話を聞くと空腹と疲労で持病が出たらしく、かわいそうに思った村人は一所懸命に看病し、そのおかげで少女はすっかり元気になりました。そして柿が渋くて悩んでいることを話すと、少女は、村人に渋柿を甘くておいしい柿にする方法を教えてくれました。それは、一面に白い粉がふいたまるいコロコロした柿で、口に入れると、とても甘くおいしいものでした。

村人がどうしてこんなに甘い干柿ができるのかと感心している間に、少女はにっこり笑って名前も告げずにお礼だけを言って立ち去っていきました。村人は不思議に思い、そのあとをしのび足でつけていくと、少女はお寺への坂を上がって姿を消してしまいました。


どうしたのだろうと村人が不思議に思っていると、目の前の大石の上に紫の雲がたなびき、その中に観音様の姿が浮かんだのでした。村人が合掌してよく見ると、それは禅定寺の十一面観音様でした。村人は、この村を救うために少女に姿をかえて自分たちに甘い柿を授けてくれた観音様にみんなで感謝したのでした。


古老柿は一人の娘が教えてくれたことから孤娘柿と書かれることもあります。また少女が消え、観音様が現れたその大石は美女石といわれ、現在も禅定寺の寺領に存在し、禅定寺の十一面観音は国の重要文化財に指定されています。



縁起物としてよく、お正月には鏡餅に古老柿、みかん、昆布を添えて祝います



古老柿はビタミンCが大量に含まれた自然食品です。高血圧、動脈硬化、ガン予防に役立つといわれている。又、柿のタンニンは、酒の酔い覚ましによいともいわれている。



宇治田原の名所 旧跡 行事



猿丸神社


奥山に 紅葉ふみわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋はかなしき と詠んだ三十六歌仙の一人、猿丸太夫が晩年を過ごしたと言う伝説が残っています。こぶ取りの神様として信仰も厚く、毎月13日に行われる例祭及び地元特産品の市「猿丸市」には、臨時バスも運行される程の人出でにぎわいます。



禅定寺



滋賀県大津市へ行く街道沿いに建つ禅定寺は、平安時代に東大寺の僧、平崇が開いた古刹。高さ3メートルの本尊木造十一面観音立像及び、その左右に配された木造日光・月光両菩薩立像は、ともに国の重要文化財に指定されている。三門から望む鷲峰山や茶畑の眺めも美しく訪れる人を魅了します。私の初めての子供の長女につけた名前が変だと言う母を連れて、この寺に行ったことがある。住職は実子(みこ)という名前は最高にいい名前だと言ってくれて、私は大いに安堵したものでした。その後母は何も言わなくなった。当時の住職は姓名判断もするお坊さんだった。


永谷宗円 生家 


江戸時代中期、赤黒く粗末な茶しかなかった時代、当時高級品だった抹茶の製法を煎じ茶に取り入れ「青製煎茶」を作り出した宗円。その生家が町内の湯屋谷に保存されています。藁葺き屋根で内部には焙炉跡も残り、約15年もかかって研究を重ねられた様子がうかがえます。



大滝


湯屋谷の中谷の最奥にあり、背後の鷲峰山山系より溢れる清流は、数十メートルの滝となり町内では最大級の滝となっています。滝の上の不動明王像は明治時代の作品で、大滝不動尊は水難除けと無病息災とともに雨乞いの不動尊として信仰されています。不動尊の使者は(うなぎ)で、うなぎにお酒を飲ませて滝壺にながすと、雨が降るという伝説があります。



弘法大師の井戸


高尾(こうの)の(弘法大師の井戸)はあまりにも有名で、その昔、巡錫中の弘法大師がこの里を訪ね教示したと言われています。老婆と大師のうるわしい伝説の井戸で古今枯れることなく村人の生活を支えている「霊泉」として信仰されています。冬あたたかく夏冷たい清水は環境悪化の今日でも「名水」として益々有名です。



田原祭り「三社祭り


「せいのう舞」「王の舞」「上げ馬奉納」「鉾廻り」などがとりおこなわれ沿道での「駆け馬が終わると祭りのクライマックス(みこし巡行)が始まります。例年10月10日頃。その日、我が家では新米で作ったさば寿司をいただき、一年の農作物の収穫を神に感謝、家族の慰安のひと時を過ごすならわしです。



ねりこみ囃子


豊作 厄払いを祈願して村人が鐘や太鼓を打ち鳴らして踊る江戸時代からの風習。今は保存会と小学生が鳴らし物を打ちながら奥山田天神社まで練り歩く。



縁たたき


高尾地区にある阿弥陀堂の本堂の入り口に厚い木の板を置き、男たちがその板に青竹を打ちつける風変わりな行事です。



鷲峰山金胎寺「じゅうぶさんこんたいじ」


(じゅうぶさん)(じゅうぶせん)とも呼ばれるこの山は、大和 大峰山と並ぶ修験者の場。山の頂上には多宝塔 弥勒菩薩像 不動明王像 毘沙門天堂などの寺宝を安置しています

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