2007年6月26日火曜日

東京だよ、オッカサン

東京だよ、おっかさん



この文章は、大学の卒業を控えた4年生の秋に、入学当時を振り返って書き留めたものです。今、読み返してみて、入学する前の高ぶっている心模様が、新鮮に甦ってくるのが、驚きでした。加筆したり、一部変更したりして、公開することにしました。一部、脱線をしたり、尻切れトンボに終わった文章ではあるのですが、大学に入学した当時の様子と、ゴクラクトンボの実態の一部が書かれています。

法政、明治、中央大学を受験しました。当時、三校とも、サッカーが強かったのです。志望学部は、グラウンドに近い学部学科を選びました。この三校には合格しましたが、不合格になった国立大学もあります。その大学のことは、この際悔しいから、もう忘れたことにする。

慶応、立教、青学は受けなかった。ブルジョアっぽくて、女っけが濃い気がしたので避けたのです。今では、大いなる誤解だったのだとは、解っています。WKの定期戦でみせる、Kの根性は、Wの「百姓」の比じゃありません。立教の戦法も、泥臭い戦いぶりでした。なにが、センターポールだ、と嫌悪感があったのです。山間谷間の村で育った一高校生には、東京の大学の状況など何も知りませんでした。少ない情報のなかで、偏見だけは、立派に育てていたようです。

W大学で、サッカーをやることに、腹は決めた。覚悟した。


と、言ったって本当にできるの? きっと、大学のサッカーは、大変なのだろうなあ。


何ひとつ確信めいたものを実感できないまま、東京に向かう日は迫ってきていた。浪人仲間の、ババト 芦原 戸根等には、サッカーをやるんだと言っていた。


勉強をしたい課題も目標もない。さりとて立身出世や、大金持ちへの夢もない。


「ただ、W大学でサッカーをやるのみだ」、と。


急に、サッカーをやるのだ、と聞かされた彼たちは、俺のことを、なんと思っていたのだろうか。山岡は、頭に血が昇っている、ぐらいに思っていたのだろう。


山岡の奴、サッカーがメッチャクチャ上手いわけでもないのに~と思っていたかもしれない。俺はサッカーの魅力に、どうしょうもなくハマっていたのだ。名選手になりたいとは、そりゃあ、想像はしてみたが、無理なことは解り切っている。


そんなことよりも、本当に大学でサッカーをやり通せることが、可能なのだろうか。不安は、付きまとった。


やって、みたい。必ずやり通してみせるぞ。


そうしたら、何らかの、結果が出るのだから。


不安と恍惚、我にありってとこか。


できるなら、チャンピオンのチームに所属してみたかった。


俺だって、可能性のちょっとぐらいは、自ら感じたい。俺の中に、1ミクロンの可能性でも、潜んで居て欲しい。でも、現実には、ちょっとした能力のかけらも、自分では実感できなかった。


妄想も一役、俺の無防備な野心を駆り立てる。


幸せな錯覚か?



田原を出発する日の朝、小林喜代司が我が家に来た。


田原は、私の故郷です。住所は、京都府綴喜郡宇治田原町南切林。


小林は、中学校を卒業して京阪宇治交通に就職していた。その時分、彼は車掌さんだった。お客として、たまにでくわすこともあった。そんなとき、小林は会社の制服姿で帽子をちょっと斜めにかぶり、一人前のプロの車掌さん風。


高校生の頃、車掌さんの彼にでくわした時は、いつも、乗車料を払わなかった。払ったためしがない。目と目で、確認し合った。その日の朝、喋り下手な彼は、無動作に俺の目の前で包装紙を解き、万年筆を出して、「保ちゃん 頑張りや」、と励ましてくれた。


中学生の時、席が隣同士だったので、ちょっとばかり、小林が勉強で困っているのを助けたことがあって、小林は俺の応援団でもあったのです。小林は中卒で、バスの車掌さんになった。道端で俺とバッタリ会ったときなど、必ずといっていいほど「保っチャンは、大学へ行って、頑張ってよ」、と励ましてくれた。


俺はその時まで、友達からプレゼントらしき物を貰ったためしがなかった。「一所懸命 勉強しいやと」、と またまた念を押された。


ええ、奴や。


私は図らずも、泣いてしまいました。俺が他人の前で憚らずに号泣した、人生最初の出来事でした。


俺の生家もけっして豊かではなかったが、小林の生家は、俺のうちよりも、もっともっと貧乏だった。小柄な母親の細腕一本で、小林と姉を育て上げた。


よくやったねえと褒められる人間になりたい。絶対、立派な人間にならないと、この小林に目も合わせられないと思った。


母も、旅立つ俺に忠告した。


「保 東京と言う所は、怖いところでなあ、おなかが空いたときは、店の前には暖簾というものがあって、その暖簾に、(めし)とか(うどん)とか書いてあるから、そういう店に行くんだよ」。


「レストランとか料理店とかの店には、入るんじゃないよ、そういう店は高いから」。


母が、俺の東京行きに際しての唯一の忠言だった。


でも、東京の何処を探してもそんな店はなかった。そうだ、もう一つ、どうしても俺に守って欲しいという、母からのお願い事があった。


それは、「田原では、勝彦がえらく頑張っているのだから、勝彦に迷惑がかかるようなことだけはしないでくれ」。勝彦とは、俺の兄貴のことです。家業である百姓を継いでくれていた。百姓が大好きな兄貴だ。米とお茶の生産専業農家の若き跡取りだ。


迷惑をかけないということは、どういうことや、と聞き質すと、母ははっきりと答えた。「警察のお世話にならないことだ」 と、言った。


母は、「偉くなってくれなくてもいい、金持ちにならなくてもいい。警察のお世話になるのだけは、死んでも嫌だ」、と言った。聞かされたときは、なんじゃ、そんなことか、と気楽に考えていた。



警察に捕まりかけた、その1。


3年生の時。


10.28国際反戦デーのデモ行進の際、隊列からはずれ、機動隊に赤坂の清水橋に追い込まれた時は、母の顔がちらちらした。


どんなことがあっても、警察に捕まるわけにはいかない。命がけで、他人の家の庭に逃げ込んだ。主人に気づかれたけれども、突風のごとく、庭から、通りへ逃げ切ることができた。


デモ隊からはぐれて、一人になると、そこは急に、平和な静かな町並みである。普通の市民? が平和に暮らす、普通の世界。


普通の市民って誰のことだ。自分だけが、世の中から突出しているのだろうか。普通の市民こそ、可笑しいのではないのか。


とりあえず警察に捕まらなくて、よかった。お母さん、お母さんには迷惑をかけない範囲内で、俺は、最大に過激に戦ってみせるぞ。


赤坂から、高田馬場を目指して歩いた。高田馬場には、一年後輩の福田恵一(秋田市役所に就職した)が、お姉さんとアパートを借りて住んでいるのを知っていた。そこまでたどり着ければ、そこで寝られる。ジャンパーは、催涙弾を浴びているので、丸めてヘルメットに押し込んだ。ひたすら歩いた。小雨が降っていたように思う。お金がないので、歩くしかなかったのです。いくらでも、歩けました。


福田のアパートに着くや、すぐに寝かしてくれた。お姉さんは生憎居なかったので、お姉さん用の、ふぁふぁのきれいな布団に寝かしてもらった。


何時間か寝た頃、福田のお母さんが、秋田からやってきて、部屋に入るやいなや、俺に怒っているようなのだ。そんな気配がする。俺の枕元に置いてある革マルのヘルメットを見つけて、福田のお母さんは、福田にこの人を早く起こせと言っていた。


起こされた俺は、寝不足で頭がボヤーとしていたのだが、福田のお母さんに正座をさせられた。コンコンと、雨霰の、お説教を受けた。「あなたを生んでくれたお母さんのことを、よく考えなさい。こんなことをしていないで、勉強しなさい」と。内容はこんなことの繰り返しだった。同じことを何度も、聞かされた。


福田のお母さんは、自分の息子にも、自分の気持ちを併せて、伝えたかったのだろう。一段と、気合が入っていたような気がしました。


いいおばさん、だと思った。朝飯を作ってくれました。催涙弾を浴びたジャンパーを洗ってくれたが、匂いは落ちなかった。おばさんは、しかめっ面をしていて、秋田訛りで、お説教のしっぱなしだった。



警察ではなかったが、公安に捕まりかけた。その2。


4年生の夏だ。


就職は決まっていた。コマツさんと結婚しようと決めていた。確かコマツさんの両親に、俺との結婚の了解を得るために、京都のコマツ家を訪ねた。東京への戻りの列車内でのことだったと思う。


京都駅で、俺は全席指定の深夜の東京行きの夜行列車に飛び乗った。乗車券は買っていたが、指定席券は、買っていなかった。


デッキで立ち続けるか、疲れたらどこかに座って行くしかないと覚悟していた。指定席券がなくても、乗り込むだけなら、自由だと思っていた。その時までは、車掌さんに、指定席券がなくても、怒られたことはなかった。


その1週間前、菅平合宿からの帰りに寄り道して、軽井沢から東京へ、全席指定の列車を同じようにして帰った実績があった。


大津を過ぎたあたりで、車掌が乗車券と指定席券の検札に来た。乗車券と急行券しかもっていない俺を、車掌は不正乗車だと言った。そして、お前は常習犯か、とも言った。


車掌は米原鉄道公安室に連絡をとっていたのだ。米原駅に着いた時には、公安員が待ち受けていた。公安員に、前後にはさまれて、連行された。


一晩中、公安員の作成する調書に付き合わされた。誰もが自分の役割に一生懸命なのだ。公安の(仕事)も、つくづく大変だと思った。微罪と判断されたのか、取り調べられている側の俺の態度が殊勝に感じてくれたのか、朝になって解放された。


俺は米原市内を、一日中あてもなくうろついた後、夕方、乗車券と急行券だけで乗れる東京行きの急行列車に飛び乗った。


新幹線には乗らなかった。お金がもったいなかった。



俺には貯金があった。東京での生活を支える軍資金だ。農業協同組合の俺名義の貯金 280万円だ。俺が汗水流して、貯めて、貯めて、貯めた俺の金だ。


二浪した2年間の半分、ドカタで稼いだ金だ。浪人1年目も2年目も、3月から8月はドカタ、9月からは勉強の生活でした。都会は怖い所だと聞かされているから、母に預けておいた。そのお金を、少しづつ俺の指示通りに、西武柳沢にある農協の支所に振り込んでもらっていた。


夜行列車のなか、乗客はちらほら。これからの生活のことが不安で、どうしても眠りにつけない。車窓から見える都会の灯りを見ても、何も感じないのに、山裾の集落に、どうしても今まで過ごしてきた田原の里が、重なってくる。


列車は暗闇の中を走る。


遠くに見える山裾の農家から、ほのかな灯りが漏れる。


静かな、ほのぼのとした生活の灯りだ。


涙がぼろぼろぼろ流れて、止まらない。うっうっう 声に出さずに静かに静かにいつまでも泣いた。


楽しいことばっかりだった、田原の里での生活。俺を育てた田原の里から、どんどん遠いところへ向かっている。は・な・れ・て、行く。


さようなら。ありがとう田原、と何度も何度も目をこすった。


素浪人

浪人時代、俺は俺自身を、テレビ番組の素浪人月影兵庫を気取っていた。酒を飲んでは、「わしゃ、素浪人の月影、兵庫じゃ」なんて、訳もなく、わめいたものです。


将来の大学での生活に備えて、その生活費を土木作業員をやって貯めていた。いわゆる ドカタ、です。房やんと犬ヨシさん、俺と親方、いつも4人組だった。


房やんの弁当は、俺の4倍はあった。弁当箱から、ご飯が零れんばかりに盛ってあった。毎回、最高に美味そうに食った。無我夢中に食う様は、異様だった。犬ヨシさんのおじいさんは、犬と得に言われぬ交流ができた人だったらしい。交流?って俺の口からは言えない。うわさだ。房やんは、汗をよくかいた。弁当の飯の量は4倍で、汗の量は5倍で、仕事の量は、俺の7割程度だった。日当は、同じだった。彼の人柄とキャリアが評価されていたのだろう。


仕事は関西電力の鉄塔の基礎作りがメインだ。作業現場は山の尾根なので、現場に向かうとき、下の物置小屋から、荷物を背負って登るのです。俺は、たいていセメント1袋を担いで登った。確か20~25キロの重さだ。ゆっくり、ゆっくり、一歩、一歩息が乱れない程度のスピードで歩くのが、極意です。俺は、人並み以上にタフだった。


大量に荷揚げするときは、ヘリコプターが出動する。仕事はきつかったけれども、誰も何も不平不満は言わなかった。仕事には、不思議な緊張感がありました。


朝一番 朝礼がある。朝礼と言っても、整列するわけでも、本日の作業心得の唱和なんて事もやらない。小便しながら、タバコ吸いながら、冬なら焚き火しながら。俺にとって、一番大事なことは、今日一日でやりきらなければならない仕事の量の確認でした。どれだけやれば終わりにするかの指示が、親方の口から酒臭い息と共に発せられる。


それを確認し合って、じゃ、やろかあ、の一声で仕事が開始されます。


我がグループは、開始から終了まで、休まない、喋らない。ひたすら作業に熱中。通常、朝8時から夕方5時頃までかかると思われる仕事量を、一気呵成、昼飯も食わずに、昼過ぎの1時頃には終わらせてしまうのです。仕事は、関電の孫会社から、各グループの親方に「請負」で、おのおのに発注しているので、各親方は、それぞれのやり方で作業を進めていた。このやり方は、その後、社会人になってからも、随分参考になったと思う。


それからゆっくり昼飯を食って山を降りる。親方の家に3時頃着く。それから一杯飲む。ビール飲んで酒飲んで。一杯ではない、いっぱい飲むのです。


それから、房やんと犬ヨシさんと自転車で、女を悦ばすにはどうすればいいのかとか、俺のかかあは、あれが好きで、堪らんわとか、くだらない事をを話題にしながら、帰途を急ぐ。日当は学生アルバイト扱いではなく、立派な一人前の大人並みにもらっていた。だから、仕事の量もスピードも大人並みにこなした。


彦根に2週間程、飯場に寝泊りしての仕事もあった。仕事の内容は変わらないので、なんちゅうことはなかったが、飯場に居る時間だけは、なかなか耐え難いものがあった。そこで交わされる会話といえば、女のこと、競輪、競馬、オートレースのことだけなのです。臭い息を辺りかまわず撒き散らし、酒をこぼしても意に介さず、他人のことも省みず深夜遅くまで喚きちらす。夏の暑さにもかかわらず、布団を頭までかけて、何もかも忘れて、寝よう、寝ようと努力した。


若い俺にとって、こんな所で、こんなことしていてええのかな、辛い自問自答だった。


家に着いた俺はそれから勉強しようとする。


便所の隣にある俺の勉強部屋、いつも糞臭い。ドカタ仕事から勉強への切り替え作業。この作業は、なかなかの至難。日中の労働とアルコールに荒れ狂う肉体と精神を、平静な状態にもっていく作業は辛いものがありました。


俺はこの作業のために、歌を歌うことを習慣で身につけていた。大利根月夜だ、『俺は河原の枯れススキ、同じお前も枯れススキ』。このとき、(すすき=薄)を辞典で調べて、これはなかなか、意味深長な表意文字だ、と知った。この歌を、俺は意味もなく気楽に、何気なく自然に口ずさんでしまう。この歌は、当時の自分のおかれている状態にぴったりだったのです。


俺がこの歌を歌う度毎に、母はよく俺に言ったものです。俺の勉強部屋の傍にやって来て、保 頼むからその歌を歌わないでくれ、その歌を聴くとなんだか、私まで悲しくなるんだ、と。


苦悩する息子に何もしてやれない母の複雑な気持ちと、何とか結果が最悪なものでないように、枯れススキのようにはならないように願う母の気持ちが痛いように解った。できたら、この末、母には余計な心配をさせないようにしなくてはと、強く決心した。


おっかさん 東京だ

俺を乗せた夜行列車は、胸騒ぎとは関係なく、どんどん進む。思い出だけはいくらでも湧いてくるが、これからのことについては、何にも思い当らない。不安だけ、不安ばかりの自分だった。


孤独だった。


一体全体 俺は何者だ、俺はどうなるのだろう。


とうとう東京に着いてしもうた、わ。


東京駅のこともそれから、山手線に乗って高田馬場駅に着くまでのことも何も憶えていない。駅の構内の案内板だけは、しっかりチェックしていた。風景が目の前を通り過ぎ去っていくだけのこと。ただ、なぜ東京駅に、東京温泉があるのだろう、と思ったことは記憶にある。


高田馬場駅に着いてからのことはよく憶えている。駅の様子、特に学生がえらく多いことには吃驚した。学生と思われる人々の自由な風体、闊達奔放な振る舞い、底抜けに明るい表情には安心した。


俺は、今ここにいるんだ。此処で、彼らと同じ様に俺もやっていくんだ。不安はあるものの、好奇な光景の中で生活する興味が湧いてきたような気がしてきた。


昨夜、夜行列車のなかで、あんなに不安のトリコになっていた青二才は、なんだか今日は夢いっぱいの青雲の土に大変身していた。頑張らにゃ、アカン。とにかく、俺は、やるだけのことはやるのだ、と腹に覚悟の焼き棒を挿した。


命、がけや、で。


駅を出たところにスクールバスの発着所、その横には立飲み屋。まさかその時は、この立飲み屋にその後大変お世話になるとは、思いもしなかった。


受験に来た時にもスクールバスには乗らなかった。貧乏人の俺にも最少限のお金はもっている。が、使いたくない。使わない。スクールバスには乗らないで、とりあえずW大学に向かって歩きだした。


映画館、麻雀屋、パチンコ、喫茶店、古本屋。今まで見たことのない程、古本屋の多いこと。受験に来た時は、既に今までもずうっとそこに、あったはずなのに、こんなにお店が多いことに全然気がつかなかった。どの古本屋の前にも、文庫本が山の様に積まれていて、1冊10円から、10冊束ねて60円のものから、種々雑多な文庫本が溢れていた。比較的多く積まれていたのは、源氏鶏太のサラリーマンシリーズだった。面白くも、なんとも無い小説だ。


俺は直感でこれだと思った。安価で、時間つぶしも兼ねて、都合よく『教養』?を身につける秘訣が、此処にある。古本屋のなかで、大事に取り扱って貰っていない、安文庫本を大いに利用させてもらおう。



W学生会という。学生に下宿を斡旋する不動産屋さんへ行った。


西武鉄道高田馬場駅の、駅舎の一部の階下を利用した店舗に、下宿を探しに行った。その店の店員として、異常に気持ち悪く太った男が居た。その男が、後に俺が西武柳沢のアパートに住んだ時、同じアパートのの住人だったとは、これは吃驚ものだった。


色々情報をいただいたけれども、結果的に、日当たりの極めて悪いアパートに決めた。トイレと台所を兼ねた洗い場は共同使用、風呂はなし。家賃は確か7000円前後だったと思う。安いだけで決めた。


大家さんに、これから4年間よろしくお願いしますと挨拶した。とても上品な初老のおばあさんだった。礼金、敷金を払い、田原からの布団も着き、さああやるぞう、と言いながら2~3日は過ぎた。


その時から、古本屋めぐりが始まり、一番安い本から読みあさった。そして俺は、俺の全身全霊に大学生活のスタートボタンを押した。


数日後、東伏見のW大学のサッカーグラウンドに、入部のお願いに行った。

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