歌手・沢知恵(さわ、ともえ)さんのことを、名前は聞いたことはあるが、その人がどんなジャンルの歌手なのか知らなかった。ところが、2008、11、16の朝日新聞に、「縁、詠みつなぎ歌い継ぐ」というタイトルで、沢さんを特集していたのです。その記事を読むうちに、何やら、この私も、これからこの文章の中に出現する人々とも多少の縁があるのでは、と思い始めた。
今から40年前、私が大学時代に、サッカーに費やす時間以外は、テレビやラジオのドラマの脚本を書いていた牛島孝之さんと、いつも連れ立って行動していた。あれやこれや、スポーツ談義から演劇、小説、政事、社会で起こった事件を話題にして、時間が経つのを忘れて過ごした。私と出会う約10年ほど前は、華やかな人気脚本家だった。彼の売れっ子時代のスケジュール表を見せてもらったが、寝る間もないくらい働いていた。そのうち、自分が企画・脚本まで仕上げたドラマが、テレビ局のお偉いさんに没にされ、それからは筆を執ることも少なくなり、私が一緒に過ごした時には、TBSの「幸せ見つけた」たった1本だけだった。この仕事も、嫌がる牛島さんをなだめすかして、生活費の捻出のために、友人が無理やり仕掛けた仕事だった、と聞く。牛島さんは、世間から遠ざかって行こうとする、後ろ向きな生活をしていた。子供2人を育てながらです。生産的、向上的な生活ぶりではなかった。傍(そば)からは、やけくその人生のように見えた。それでも私には、私の知らないことをいっぱい教えてくれた。私にとって、学生時代、唯一学習らしい貴重な時間だった。本の読み方から、文章を書く初歩的な作法を教えてくれたのです。演劇については難解で、理解できないまま卒業してしまった。演劇どっぷりの人たちが、牛島さんの直ぐ傍に居たのに、私は学習する機会を逸したようだ。くれぐれも残念だった、と思う。
私は大学に入学すると、すぐにサッカー部に入部した。1年生は強制的に、グラウンドに隣接している寮に入寮しなければならなかったのです。寮とグラウンドの住所は、私が田舎からやってきた時には、東京都北多摩郡保谷町東伏見だった。今は東京都西東京市東伏見だ。東伏見は狭いエリアなので、私の居た4年間で全ての家を見ていると確信できる。狭い路地から大きな道路、全部くまなく歩いた。薬屋、八百屋、肉屋、中華料理屋、蕎麦屋、パン屋、酒屋さんに焼き鳥屋なら、その従業員から家族構成まで把握していた。銭湯のカッちゃん、酒屋のカクちゃん、肉屋のツンちゃん、ここまでは独身女性でした。蕎麦屋のイチロー、工藤薬局の工藤大幸、小鳥屋の和田あきこに駄菓子屋のアグネスチャンチャン(これは、私だけが使っていたニックネームです。洗練?された愛称でしょう)。こんなところで、学生時代の悪夢が蘇ってきた。嗚呼(ああ)、あの和田あっこのガラガラの怒声が暗闇の中から迫ってくる。私を追いかけてくる。私は引き倒され、組み敷かれ、馬乗りになった和田あっこの顔が私の顔を直接に覆う。うっう、苦しい。そして、怒鳴りつけられた。「ヤマオカさん、先月のツケ、いつ払ってくれるの(怒髪が直立)。2、380円だからね。わかったかあ。金さんもだよ、竹本さんにも言っておいてよ」。話は、思わぬ方向に脱線してしまった、誠に失礼いたしました。だらしない学生時代の残滓じゃ。
ここで、この稿準主役の茨木のり子さんの登場です。まさしく、本人・茨木のり子さんが住んでいた東伏見に、私も牛島さんも住んでいたのです。茨木のり子さんのお住まいは、当時その気になりさえすれば、簡単に見つけられたのだけれど、その時の私の優先順位は、1番はサッカーを続けることで、2番はサッカーを続けられるための細事、雑事。学校の授業なんて眼中になかった。サッカー以外は余興みたいなもので、全て捨てていた。ここまで書くと、私のことをよっぽど上手な選手だったのでは、と想像されると非常に困ります。ヘタも下手。立派に一番下手でした。下手糞な自分の逃げ場を封じて、真剣に自分に賭けていた。
4年生の時、その牛島さんから、茨木のり子さんのことを教えられたのです。茨木のり子さんは、この近所にお住まいで、時々グラウンドを覗かれているんですよ。端正な身なりでこの道を歩いておられるのをよく見かけるのですよ。清楚な人ですよ。きっと、あなただって道などで、見かけているはずだよ。牛島さんは、あたかも自分の愛する恋人のように話していた。牛島さんには、そういう生まれながらの癖があった。何でもないのに、何かがあったような謎めいた言い方で、自分と相手を特殊な関係にまで一気に昇華してしまう。牛島さんは、墓場に入って13年は過ぎた。悪口も少しぐらいなら、許されよう。茨木のり子さんのことを、自分との関係をほのめかしながら、雲の上の人のようにも語っていた。この関係ってやつなのだが、牛島さんは単なる熱心な読者に過ぎないだけなのだが。ホンマにしょうがない変なオジサンでした。
牛島さんから、当然、茨木のり子さんの詩集を紹介された。読めば読むほどに、茨木のり子さんの世界に魅(ひ)かれていった。私は近しい友人に、茨木のり子さんのことを話したり、詩集を紹介した。その友人は、すっかり茨木ファンになってしまい、新しい詩集が発売されて、私がその購入にモタモタしていると、気立ての好い友人は「ハイ、どうぞ」と微笑を添えでプレゼントしてくれるようになった。読み終えたら、俺にも読ませるんだぞ、という条件で。当時勤めていた会社で、それらの詩集を回覧した。女子社員の間でファンがドンドン増えていった。
その茨木のり子さんの詩に巡り合った沢知恵さんが、茨木のり子さんの詩に曲をつけて歌っていることを新聞は報じていた。
ここら辺りから、この稿の主目的である、運命的な「縁」のお話です。ドラマチックでもありますヨ。
その沢知恵さんが茨木さんの著書「ハングルへの」旅」を読んで、茨木さんがその著作のなかで、金素雲氏の『朝鮮民謡選』を少女時代に読み、金さんの秘められた抵抗精神を受け取らざるを得なかった、と又、彼の蒔いた種子がひょっこり私の中で芽を出したと言えなくもない、と書いた。沢さんは、体中に電気が走った、と。
金素雲氏は沢さんの母方の祖父だったのだ。私もこの「朝鮮民謡選」を、在日韓国人の友人に薦められて詠んでいました。人間のもつ強い意志を、静かな言葉で綴られていた。きっと、二人の気脈が深いところで通じたのだろう。
この沢知恵さんと、沢さんの祖父・金素雲さんと茨木のり子さんたちの、人の縁のことを書いた朝日新聞の記事を丸ごと転載させていただいたので、それを読んで楽しんでください。この不思議な縁でつながる人の輪のなかに、オイラも牛島さんも入れてくださいナ。
私は、茨木のり子さんの著作からは韓国の抵抗詩人・金芝河(キムジハ)、「祝婚歌」の吉野弘さんのことを教えていただいた。感化され易い私は、金芝河を詠み、彼がこよなく愛したミョンドンの飲み屋にも行ってきた。濁酒(どぶろく)を鱈腹飲んできた。吉野弘さんの「祝婚歌」は、仕事の関係で出席した結婚披露宴で、何度も祝辞の一部に使わせていただいた。詩を綺麗な紙に綺麗に印刷してお土産に持って帰ってもらった。
茨木のり子さんの、私が詠んだ詩集を挙げておこう。
『鎮魂歌』 『私が一番きれいだったとき』 『倚(よ)りかからず』 「『言の葉さやげ』 『食卓に珈琲の匂い流れ』 『一本の茎の上に』、これらより以前の作品はまだ詠んでいない。
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081116 朝日朝刊
縁
詠みつなぎ歌い継ぐ
宮地ゆう
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広島市中区の広島女学院の講堂に今月11日、沢知恵(37)の歌声が響いた。用意した13曲の10曲目、沢は約650人の高校生に語りかけた。
「私の大好きな詩人、茨木のり子さんの歌を歌います」
《わたしが一番きれいだったとき/街々はがらがら崩れていって/とんでもないところから/青空なんかが見えたりした》
茨木のり子は06年に79歳で亡くなるまで、戦中の青春時代や戦後の世のあり方、日々の暮らしを詩に残した。
とすれば重い詩になるのに、沢がつけた曲は明るい。
「茨木さんの詩は、ひとつも暗くない。ユーモアもスパイスもあって、どんな時代でも希望も笑いもあると教えてくれる」
沢は日本人の父、韓国人の母の間に川崎市で生まれた。2歳で母の故郷ソウルに渡ったが、小学3年のとき、牧師だった父が説教中に軍事政権の批判をしたとして国外退去に。一家は1週間に荷物をまとめ、再び日本に渡った。
15歳から2年は、父の留学で米国暮らし。再び日本に戻り東京芸大を卒業後は都内のライブハウスで弾き語りをしていた。韓国、日本、米国の間で「自分は何者か」と揺れる日々だった。
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沢が茨木の代表作「自分の感受性ぐらい」に出会ったのは、00年のことだ。
《自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ》
「私のことだ」。頭を殴られたような気がした。
数年後、沢は茨木の著書「ハングルへの旅」を読んでいて、一節に目を奪われた。茨木は50歳から韓国語を学んだ経緯をこう記していた。
「金素雲(キムソウン)の『朝鮮民謡選』(岩波文庫)を少女時代に愛読しーー金素雲氏の秘められた抵抗精神を受け取らざるをえなかった。ほぼ40年を経て、彼の蒔いた種子が、ひょっこり私の中で芽を出したと言えなくもない」
体中に電気が走った。「やっぱりそうだったのか」
金素雲氏は沢の母方の祖父だった。「2人にはものすごい批判精神と最上級のユーモアが共通していた」
祖父は、植民地時代、日本と半島を往復し、朝鮮の詩を日本に伝えた。日本語に訳した時は、北原白秋や島崎藤村に絶賛されている。
沢は幼い頃遊んでくれた祖父を覚えている。ベレー帽にステッキをついた「おしゃれなおじいちゃん」。だが、沢が詩人・金素雲を意識したのは、もっと後のことだ。
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96年9月、沢はソウルで舞台に立っていた。熱気を帯びた満員の会場。当時、韓国では日本語の歌を歌うことが禁じられていた。ライブは表向き「金素雲文学の夕べ」。でも聴衆は知っていた。「日本の歌手が歌うらしい」と。
舞台に立ち、沢は語った。
「今日はぜひ日本語で歌いたい歌があります。でも、許されないから、ら・ら・らで歌います」
沢なりの反骨精神だった。聴衆から声が上がった。「日本語で歌わせてやれ」
それから2年後、日本の大衆文化が開放され、沢は韓国で日本語の歌を歌った最初のシンガーになった。
開放後の歴史的な一曲目は、あの日「ら・ら・ら」で歌った「こころ」という曲だ。
訳したのは祖父。沢がゆったりした旋律をつけた。
《わたしのこころは湖水です/どうぞ漕いでお出でなさい》
05年、沢は茨木の詩を歌にした。アルバムのタイトルを「わたしが一番きれいだったとき」に決めた。歌が完成すると、茨木に見本のCDを送り、手紙で許可を求めて、最後に書き添えた。
「本の中に祖父の名前を見て驚きました。私は金素雲の孫です」
療養中の茨木から、太い鉛筆で書かれた返事が届いた。
「沢さんが金素雲氏のお孫さんであられたとは驚きでした。十五才くらいで読んだ『朝鮮民謡選』は、今も大好きな本で、これによって朝鮮への眼がひらかれたなつかしいものです」
茨木の訃報が届いたのは、それから半年後の06年2月だった。
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昨年末、沢は、茨木の長編叙述詩「りゅうりぇんれんの物語」に曲を付け、歌った。
戦時中、山東省で日本軍に拉致された劉連仁氏が、北海道の炭鉱から逃亡して山中に隠れ、13年後に終戦を知らないまま北海道で発見される実話を描いた壮大な詩だ。
歌いきるのに70分あまり、1曲で1ステージかかる常識はずれの曲だ。沢は、直前まで歌うかどうか迷った。観客はクリマスソングを聴くつもりで集まっていた。
思い切って歌い終えたとき、拍手はすぐに起きなかった。しばらくしてぱらぱらと聞こえ、最後は会場を埋めた。
茨木が金に一度も会わなかったように、沢も茨木に会うことはなかった。でも沢は、「3人をつないだ一筋の線が見える」と言う。
東京都西東京市の茨木の家は今もそのままになっている。生前、詩作にふけった書斎の本棚には、茶色くなった金素雲の詩集が並んでいる。=敬称略
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