28日、現役引退を表明した高橋尚子(36)は、女子マラソンの新時代を切り開いたスターだった。五輪陸上日本女子史上初の金メダルに輝き、世界で始めて2時間20分の壁も破った。2大陸連続で五輪出場を逃すなど不遇な時もあったが、残した足跡は大きい。
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(081029)
朝日朝刊
スポーツ面。
日本陸上女子初の五輪金・世界初19分台/スピード化時代先取る
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リクルート時代からコーチなどとして高橋を知る金哲彦氏は「高橋のすごさは、時代を先取りしたことにある」と話す。それはトラックのスピードで、42,195キロをもたせるというマラソンを、女子でやってのけたという点だ。
大学4年の頃の高橋はトラックの3000メートルで学生ランクの上位にいた。ただ、より短い距離の方が得意で「マラソンのマの字もない走り。長い距離は無理だろう」という見方だった。
練習量はこなせ、馬力もあったが、駅伝だとブレーキをおこした。本番に弱いタイプでもあった。変わったのは、小出義雄氏がマンツーマンで見るようになってからだ。
金氏によると、高橋は以前、ひざから下の筋肉や足首のバネで地面をける走りだった。いわゆる「足を使う」走りだった。それはスパート時には武器になり、見てはっきりわかるほど瞬間的にフォームが切り替わる。ただ、そんな走りだけではマラソンはもたない。豊富な練習と小出氏の指導により、バネを使わない長持ちする走りに徐々に矯正され、エネルギーロスの少ないピッチ走法が完成していく。
世界陸上統計者協会の野口純正氏の分析では、01年ベルリンの時の高橋はピッチ1分間209歩、ストライド145センチ。対して、07年東京での野口みずき(シスメックス)が197歩、151,5センチと対照的だ。高橋が野口より身長では13センチ高いことを考えれば、違いはさらに際だつ。
あとは、常識はずれの高地練習がゴールまでもちこたえる持久力を植えつけた。
女子マラソンの日本記録を98年3月から01年9月までの3年半ほどの間に1人で約6分も縮めた。日本を世界トップレベルに引き上げ、女子マラソンで一つの時代を築いた。〈酒瀬川亮介〉
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挫折、挑戦、人々に勇気
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高橋ほど、さわやかに42,195キロを駆け抜けた選手はいないだろう。ライバルをぴゅんと引き離す疾走のような走り。ゴール後は、苦しそうな顔は決して見せないと固く決めていた。「マラソンはこんなに楽しんだよって知ってもらいたい」。走ることが心の底から好きだということを、存分に示してみせた。
そう明るく語る笑顔は、実は、過酷な練習の末に生み出されていた。ピーク時には1日70キロを超える走り込み。米国では心肺機能を鍛えるため標高3500メートルを超える高地まで上がった。「呼吸が苦しくて、胸が締めつけられるのです」。心身とも極限まで追い込む日々があったから、五輪金メダルや01年の世界記録の栄光を手にできた。
現役生活は、32歳で迎える04年夏のアテネ五輪で区切りをつける方向に傾いていた。30歳の頃、「朝起きて足が痛くないことを確認してほっとする。あと2年間、体がもってほしい」ともらしている。すでに自らの肉体に不安を感じ始めていた。代表選考会で敗れたアテネ後は、一度はやめようかと心が揺れている。
それでも彼女は走り続けた。背中を後押ししてくれたのは、絶えることのないファンからの励ましや応援の声だ。「皆さんに支えられて、暗闇の中でも夢を持てました」と高橋。05年、練習方針にずれがあった小出義雄氏から独立。全てを背負う覚悟で少人数のチームを率いた。
実際は、その年の東京国際で3年ぶりのマラソン優勝を果たしたほかは目立った成績はなく、北京五輪も出られなかった。だが挫折を繰り返しても、常に前向きに挑戦する姿が共感を呼び、人々に勇気を与えたのは確かだろう。
国内3大マラソンを連続して走る構想には「走る姿勢をできるだけ大勢の方に見てもらいたい」という感謝の思いもあった。誰からも愛されたQちゃん。それに応えようと懸命に走り続けた長いマラソンは、ようやく終わった。今はゆっくり休んでほしい。
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高橋尚子の歩み
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* 95年4月/大阪学院大からリクルート入社。小出義雄氏の指導を仰ぐようになる。
95年 4月。大阪学院大からリクルーロ入社。小出義雄氏の指導を仰ぐようになる。
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* 97年1月/大阪国際で初」マラソン
4月/小出氏」とともに積水化学へ移籍
8月/アテネ世界選手権5000メートルで13位
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* 98年 3月/名古屋国際で日本記録(当時)でマラソン初優勝「本当ですか?夢見たい」
12月/バンコク・アジア大会日本記録(当時)で制す。「走り始めたら足がよく動いたので、そのま まいった」 写真
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* 99年8月/左足を痛めセビリア世界選手権欠場
10月/ハーフマラソンで転倒し、左手首骨折
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* 00年3月/名古屋国際を制し初の五輪代表に。「(五輪)本番の9月24日は2時間20分を切る風の中で走りたい」
9月/シドニー五輪で日本陸上女子初の金メダル。「すごく楽しい42キロでした」 写真
10月/国民栄誉賞受賞。「これをバネにもっと上を目指せるいい賞だと思い、受けることを決めた」
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* 01年4月/日本陸連がプロ活動を承認
9月/ベルリン・マラソンで世界記録で優勝「最後の2~3キロは落ちた。あと1、2分は縮められるようにしたい」 写真
12月/虚血性大腸炎で入院
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*02年9月/ベルリンで優勝、マラソン6連勝、「2年後のアテネ五輪に向けて、やれるんだという気持ちになれた」
11月/東京国際を肋骨の疲労骨折で欠場。「まだ出たい気持ちが残っている」
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*03年2月/小出氏の後を追って積水化学退社。「お世話になったので悩んだ。アテネまで(小出氏に)ついていきたい気持ち優先させてもらった」
11月/東京国際で2位に終わる。「こういうこともあるんだな。マラソンの奥の深さを改めて知った」
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*04年3月/アテネ五輪落選。「走れないことは残念ですが、納得しています」
9月/右足首骨折
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*05年5月/小出氏とのコンビ解消。「チームQ」結成。「(小出氏に)守って貰える甘い環境から抜け出して自己責任で走ってみたい」 写真
11月/東京国際で復活優勝。「(失速した03年の)自分自身の思い出との戦いだった」 写真
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*06年11月/東京国際で3位に終わり、07年世界選手権代表を逃す。「アテネ五輪の時のように、私はいつも最後まで皆さんをハラハラさせる」
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*07年8月/右ひざ半月板を手術
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*08年3月/名古屋国際で27位に終わり北京五輪逃す「引退か、と言われるかもしれませんが、まだまだやりたかった。
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(081118)の朝日新聞で、元マラソンランナーでスポーツジャーナリストの増田明美さんが黛まどかさんに宛てた、手紙形式で綴られた文章のなかで、高橋尚子さんの「大事にしてきた言葉」の紹介記事をみつけたので、ここに転記させてもらった。
98年のバンコク・アジア大会で優勝した頃は、「奢るなよ円い月夜もただ一夜」。その後は「何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ。やがて大きな花が咲く」。後半は「諦めなければ夢は叶う」だった。
ちなみに野口みずきさんは「走った距離は裏切らない」だ。
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