2007年2月21日水曜日

法事の日、その日は東京マラソン

明と暗の(明)  

東京では、2007年2月18日、国内最大規模で、日本初の大都市型市民マラソン(日本陸上競技連盟、東京都主催)が行われた。東京・新宿の都庁前をスタートし、東京ビッグサイトにゴールする42.195キロに男女合わせて2万6千人が参加。10キロレースと合わせた総参加者数は3万800人だった。

都心の主要道を最長で7時間も通行止めするなど、警視庁、東京消防庁が厳戒態勢を組んだ。都心のマヒは起きなかった。

ランナーの荷物をスタートでどう回収し、ゴールでどのように手渡すか、主催者は頭を悩ませた。トイレ不足(待機中、ランニング中)も今後の検討課題だそうだ。

PRが奏功して、概ね運営は成功したようだ、と専門家は評価した。

マラソンに趣を置かない人にとっては、大いなる迷惑だったかもしれない。

勘弁してください。1年に1度のお祭りだと、理解していただきたい。参加した人たちは、心すべきことがいっぱいあります。運営者、協力者、住民の方に深く感謝すべきだ。ラーメン、うどん、焼き鳥の1本でも買って、地元に感謝すべきだ。

 明と暗の(暗)

その日私は、母と父の七回忌と祖母の三十三回忌を同時に行うというので、生家のある京都府宇治田原町に居た。仏教の世界では、3とか7にこだわるそうですな。我が隊は、休暇をとれた娘次女H子とその息子H、娘三女Sの4人組。久しぶりの田舎入りなのに、心が騒がないのは、やはり父母が死んで6年も経ったからなのか。生れ故郷を偲ぶのは、そこに、愛しく想う人が居るからなのかな。愛しい人がいなくなったら、「ふるさとは、遠くにありて思うもの」になってしまうのか。顔見知りの親戚の方々との、なんてことのない四方山話。宴席は盛り上がらないまま、しらけ鳥。酔いが廻らない。我が兄弟間にも挨拶もなし。ただ、甥っ子の清一が、農家の跡取り達14,5人で組合を結成、大規模な茶畑開発計画を具体的に進めている、という話には興をそそられた。頑張れ、と励ました。アル中を難とか乗り越え、静養している体育の先生、後に宇治の方の中学校の校長を務められた吉岡由造『現姓・森田』先生には、玄関先に土産を置いてきた。余りにも、朝、早過ぎたので、声を掛けなかった。心から、長生きしてくださいと、お祈りしている。私の浪人時代に、酒を教えた、悪い先生だ。でも、この何年間は「たもっちゃん! 酒!飲み過ぎたら、アカンで!」と、教訓を御垂れになる。いつも、立派な先生で、いつも、言う事を聞かない悪い教え子だ。

翌日、朝日新聞の天声人語で、いい文章が記載されていた。アスリートに係わる内容には、この私・山岡は、どうしても感心が向く。やはり、パクらせて頂くことにして、保存させてもらった。このような記事は何回読んでも気持ちが洗われる思いがする。

2007年2月20日 朝日新聞 天声人語より

走り終えて、後ろを向く。そして、深々と首を垂れた。東京マラソンのゴール地点で有森裕子さんが見せたお辞儀に、心引かれるものがあった。深い安堵や感謝の気持ちが、テレビ画面からも伝わってきた。それは、この「最後のマラソン」までたどってきた長い道のりへの思いだったのではないか。マラソンには、独特の魔力のようなものがある。レースの中に、人が人生行路で出会うのと似たようなものが幾つも見てとれる。坂道があり、曲がった道がある。時には靴が脱げたり、転んだりする。気を取り直して走り続けることもある。そうしたことが、走る人たちだけではなく、見る側をも強く引き付けてきた。メキシコ五輪で銀メダルに輝いた君原健二さんは、人生は、マラソンより駅伝に似ていると自著に書いている。先人から受けたタスキを、責任を持って次の世代に渡す。「私という個人の人生は、実は、人類発祥以来やむことなく続いている途方もなく長いレースのほんの一部分なのである」(『人生ランナーの条件』佼成出版社)

3万人以上が参加した初の東京マラソンでは、人々が都心の通りを駆け抜ける姿、特に角を曲がる瞬間が印象深かった。銀座にしろ、浅草にしろ、ずうっと前の世代から人は様々な思いで角を曲がり続けてきた。いわば降り積もった都市の記憶をかすめて、現代のランナーが行く。記憶というタスキを、次世代に渡す力が、東京マラソンにも備わるようにと願った。

 

 

 

 

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